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中西 学(なかにし まなぶ、男性、1967年1月22日 - )は、日本のプロレスラー。京都府京都市出身。血液型A型。新日本プロレス所属。宇治高等学校(現:立命館宇治高等学校)・専修大学卒業。
目次 [非表示] 1 来歴 2 得意技 2.1 フィニッシュ・ホールド 2.2 打撃技 2.3 投げ技 2.4 飛び技 2.5 絞め・関節技 2.6 合体技 3 野人アピール 4 入場曲 5 その他 6 獲得タイトル 6.1 新日本プロレス 6.2 他団体 6.3 レスリング 7 関連項目 8 外部リンク 来歴 [編集] 宇治高等学校時代からレスリングを始める。専修大学に進学し、大学卒業後は和歌山県庁勤務を経て新日本プロレスのレスリング部門闘魂倶楽部に入門。全日本レスリング選手権大会フリースタイルで1989年から4連覇を達成。1992年のバルセロナオリンピックフリースタイル100kg級に出場し、2回戦敗退となった。 1992年、藤波辰爾のタッグパートナーという大抜擢を受け、新日本プロレスからプロデビュー。デビュー後しばらくはレスリング用のヘッドギアを着用していた。1995年3月、第6回ヤングライオン杯にて優勝。同年6月より米国武者修行へ旅立つ。若手時代は特にマサ斎藤にかわいがられ、修行先のWCWでは「世界に通用する男だから世界に通用するリングネームを使え」と、マサに命名された「クロサワ」の名で活躍した。 1996年9月に凱旋帰国。1997年には小島聡と組んで第31代IWGPタッグ王座に就く。1999年にはG1 CLIMAXで初優勝。同年、永田裕志と組んで第39代IWGPタッグ王座にも就いた。 2000年3月28日、永田・ブライアン・ジョンストン・吉江豊・福田雅一と格闘ユニット「G-EGGS」を結成。本隊内の独立した軍団として、蝶野正洋率いるヒールチーム「TEAM 2000」と抗争を展開。この頃、「P-4M」というメッセージを発信。「問題(Problem)」に「耐える(Put up)」事により「願いが叶う(Possible)」事を「約束される(Promise)」という4つのPからなるもので、これを意味する手のポーズも有る。 2003年6月29日、FEG主催の「K-1 BEAST II」でK-1ルールに初挑戦。同じくK-1初参戦であり、アマチュア相撲出身のTOA(格闘家)と対戦するが、1R右フックでKO負け。試合後の会見で前日の練習中に脚に怪我を負っていたことを告白した。 2004年、「シングルをやるために」と本隊を離脱し反体制派へ。一匹狼となり、海賊(パイレーツ)を名乗って暴れる。短期間ながらウルティモ・ドラゴンとタッグ結成。その後は蝶野のチームに合流し、ニュー・ジュラシックパワーズとしてスコット・ノートンともコンビを組む。短期間で、野人→海賊→ソルジャーへとギミックチェンジを繰り返した。 2005年からは、同じくレスリング出身であり犬猿の仲である永田、ケンドー・カシン、藤田和之と「チーム・ジャパン(TJ軍)」を結成。翌年の新日本のユークス子会社化に伴う猪木事務所との提携解消による藤田の離脱まで活動する。 2006年5月31日、ZERO1-MAXでのタッグマッチで大森隆男との試合後、大森の実力を認め握手を求めた。大森も中西を認め握手を交わしタッグチームを結成した。6月24日のディファ有明大会でNWAインターコンチネンタルタッグ選手権に挑戦。合体技「ワシントン条約」で勝利、初タッグ結成でいきなり王者となり、2戦目の7月17日札幌月寒大会ではIWGPタッグ王座(暫定王座)も奪取した。9月20日付けで、蝶野&天山組の持つ第48代IWGPタッグ王座は剥奪され、同日付けで正式に第49代IWGPタッグ王者となった。チーム名を「ワイルドチャイルド」とした。しかし、2008年1月1日、ZERO1-MAXの後楽園大会で大森とリング上で大喧嘩し、タッグを解消した。 2009年4月5日、大森のリング復帰を機会に大森と再共闘。2009年5月6日、後楽園ホールにおいてIWGPヘビー級王座に挑戦し、棚橋弘至を破り第51代王者となった。これまであと一歩のところで手が届かなかったベルトに、6度目の挑戦で悲願の初戴冠。実況席で解説の「鬼軍曹」山本小鉄も、人目を憚ることなく涙を流した。 2009年6月20日、初防衛戦で棚橋とのリマッチに敗れ、王座を明け渡した。 得意技 [編集] 小細工無しのパワーファイトが信条だが、最近ではその体躯から繰り出す迫力ある飛び技など、対戦相手やファンを「あっ」と驚かせる技も使うことが多い。 時事ネタを技名に用いて新たな技を使い始めることが多いが、短期間で使われなくなることも多い。 パワーファイターには珍しく、パワーボム系の技を一切使用しない。 フィニッシュ・ホールド [編集] アルゼンチン・バックブリーカー 中西の最も得意とする技で下記のように派生技、バリエーションに富む。また、タッグマッチの際に救出に入った相手パートナーに投げつけることもある。 派生技 アルゼンチン・ストマック・ブロック アルゼンチン・バックブリーカーの体勢から上部に放り投げ、自身の立てた膝に相手の腹を打ち据える。 アルゼンチン・バックフリップ アルゼンチン・バックブリーカーの体勢から後方に倒れ込む。 2段階式アルゼンチン・バックブリーカー アルゼンチン・バックブリーカーの体勢から上部に放り投げ、自身の立てた膝に相手の腰を打ち据える。 ヘラクレスカッター ウルティモ・ドラゴンとのタッグ時に開発された技。アルゼンチン・バックブリーカーの体勢から数回振り回して相手の後頭部を叩きつける。いわゆるスピニング・パンケーキと同型。 マナバウアー アルゼンチン・バックブリーカーから数回振り回してジャーマン・スープレックスを放つ。命名の由来は荒川静香により有名となった、フィギュアスケートの技「イナバウアー」。通常のジャーマン・スープレックスの5倍の威力とのこと。 ジャーマン・スープレックス・ホールド 開発者のカール・ゴッチに直伝されたというアングル(実際にはフロリダのゴッチ宅を訪問して少しアドバイスをもらっただけ)を経て、再度使い始めた。 高山善廣の同技が"エベレスト"ジャーマンと呼ばれていたことに対し、自ら"富士山"ジャーマンと命名したが、定着しなかった。高山は富士山ジャーマン命名の報をマスコミから聞くと「エベレストより低いじゃん」と一笑に付した。 大☆中西ジャーマン 中西が2008年1月4日に行われた東京ドーム大会でのアビス戦に向けて開発したジャーマンである。右手を天空にかざして技の発動を予告した後、相手の身体をロープに振って、その反動でジャーマン・スープレックスを決める。さらにグロッギーになった相手を通常のジャーマン・スープレックスでフォールする二段構えの技。 特大☆中西ジャーマン IWGPヘビー級王座に初載冠した際に放った技。リフトアップ・スラムの体勢からトップロープに強引に投げつけ、その跳ね返ってきた反動でジャーマン・スープレックス・ホールドを極める。試合中とっさに出た技で公式サイト内でも"ジャーマンスープレックスホールド"と表記されていたが(リングアナウンサーは大☆中西ジャーマンとコールしていた)、翌日の記者会見で自ら「特大☆中西ジャーマン」と命名。 打撃技 [編集] 逆水平チョップ 現在の日本マット界一の使い手の呼び声も高い。非常に説得力のある激しい音が会場に響き渡る。2009年10月12日の蝶野25周年両国大会では、小橋健太と激しいチョップ合戦を繰り広げた。 クロスチョップ 両手を、手のひらを下にした状態で、胸の前でバツの字に重ねて、相手ののどを突く。軽く地獄突きを繰り出した後に手をグルグル回し、タメを作ってこの技を繰り出すことが多い。 野人ハンマー 両手の指を組み、両腕を相手の胸元に叩きつける。中西流のダブルアックスハンドル、他の選手が使うのとの違いは一本足打法で放つ。 一本足野人ハンマー 野球日本代表が第1回WBC優勝後に開発。チームの監督である、王貞治の打撃フォームに似せて一本足で野人ハンマーを放つ。カウンターでも使用される。 野人ラリアット 後期の野人アピール後に放つことが多い。インパクトの瞬間に両膝をマットに着地させる膝付き式。ジャイアント・バーナードとの試合において、ロープに振った後、自らは違う方向に飛び、走る経路を途中で曲げて腕を叩き付けるホーミング式ラリアットを見せた。 マッケンロー 同名のテニス選手のフォームにヒントを得て開発した、膝裏への低空ラリアット。 スピアー 投げ技 [編集] カナディアン・バックブリーカー 現在ではほとんど使用していない。 ハイジャック・バックブリーカー 世界三大バックブリーカーと呼ばれる技全てをこの技の使用で網羅したことになるが、ほとんど使用されていない。 野人ブルドッギング・ヘッドロック ヘッドロックに捉えた後、助走を付けずに繰り出すのが中西流。 投げっ放しノーザンライトスープレックス 主に1990年代頃に使用していた。 ブレーンバスター・スラム ここからリングを対角線上に走ってジャンピング・ニードロップを仕掛けることが多い。 雪崩式ブレーンバスター トップロープ上から繰り出すこともあり、リングがバウンドするほどの威力と迫力を持つ。 水車落とし 相手へのカウンターで使用する。雪崩式も稀に使用。 飛び技 [編集] フライング・ボディシザーズ・ドロップ 勢いよく相手に飛びついて極める。 ミサイルキック これも正面飛び式で放つが、超ヘビー級の中西が放つミサイルキックの威力は高い。 ダイビング・ブレーンチョップ コーナー上でグルグルと腕を回してから放つ。 フロッグ式ヘッドバット 倒れている相手へ蛙飛びでヘッドバットを見舞う技。 ドロップキック 大抵は正面飛び式で放つ。リープ・フロッグで相手を飛び越えてからの一連の流れは「ゴリラのルチャ・リブレ」と形容された。 ジャンピング・ニーパット 一時期多用していたが、近年ではほとんど使用されなくなった。 ジャンピング・ニードロップ ダウンしている相手の頭部めがけて、助走をつけてからジャンピング・ニーを落とす。ブルーザー・ブロディのフォームを意識している。 絞め・関節技 [編集] アイアンクロー 二人同時に掴んだり、そのまま大外刈り(ブキャナンのアイアン・バスター と同型)で相手を倒すこともある。 マフラーホールド アルゼンチン・バックブリーカーの要領で相手の足を肩に担ぎ極める技。中西がサブミッション系の技を持っていなかったために開発された技。 マムシの生殺し 2007年のG1用に開発した技であり、キャメルクラッチから相手の首を強引に曲げる技。 ベアハッグ ネックハンギングツリー 荒鷲掴み 対中邑真輔戦において坂口征二と共に開発した通称「ボマイェ返し」。相手を持ち上げ豪快に叩きつけた後に腕ひしぎ逆十字固めを極める。しかし、実際の試合では、まず片手で相手の片足を掴み、もう片方の手で背中当たりを支えてから、強引に持ち上げて、そのまま高いところからフェイスバスターの要領で叩きつけるという、まさに荒技であった。 合体技 [編集] ワシントン条約 大森隆男の合体技。アックスボンバーとマッケンローを同時に繰り出す。2人の巨体から生み出されたこの技の破壊力は大きい。 京都岐定書 山本尚史の合体技。一本足野人ハンマーと水面蹴りを同時に繰り出す。技名はそれぞれの出身地から。 野人アピール [編集] 中西は一部の技に行く前に特定のアピールをすることがある。ただし、それはずっとしているわけでなく、しばらくすると新しいアピールをしだす。 両手の肘から先を振る:スピアーに行く前に両手の肘から先を振り回す。相手が寝転がっているときや片膝状態の時に行う。 両手をばたつかせジャンプ:アルゼンチン・バックブリーカーに行く前に、両手をばたつかせながらジャンプする。 片手を突き上げる:特定の技ということはない。右手を突き上げ、「ホーッ!」と叫ぶ。 地団駄を踏む:ラリアットに行く前に地団駄を踏み、右手を振り回しながら左手で相手を誘うように動かす。 試合後マイクアピールをする際にマイクの音源を確認するために数回マイクを叩いたら観客からそれに合わせて手拍子されたので、地団駄を踏みながらマイクをテンポ良く叩き出す(最初は観客の声援からのアドリブで行なったことだが、現在はマイクアピール前の定番となっている)。 また、G-EGGS時代における永田とのタッグ戦では、劣勢の中西の髪(当時はパーマをかけたセミロングヘアー)を永田がコーナー際でもじゃもじゃと掻き中西が復活するというパフォーマンス(通称・野人パワー注入)が見られた。 2010年のG1 CLIMAX XXのリーグ戦でストロングマンとの対決で片手を突き上げ、地団駄を踏んだ後、闘牛の暴れ牛が突進する前に前足で地面を数回ひっかくような動きを行った。この時、観客たちも初めて見る動きだったため、笑い声と拍手で会場が湧いた。 入場曲 [編集] Seize The Tactticz(現在使用中) WAR(黒い戦争)(エドウィン・スター)(2008年のG1タッグで吉江豊とのタッグチーム「ビックマウンテンズ」の時の入場曲) その他 [編集] 同時期にデビューした選手は「第三世代」(第一世代=藤波、長州力など、第二世代=闘魂三銃士、佐々木健介など)と呼ばれる。そのため、デビューの遅かった中西は健介と同年齢ながら第三世代扱いとなった。 大一番の前には対戦相手に「小細工はいらない」と言うことが多いが、中西本人は前述の通り新技開発を好む。 WCWでクロサワを名乗っていた頃、試合中のアクシデントで対戦相手のホーク・ウォリアーの腕を折ってしまい、しばらく試合を干されたことがある(もっとも、ホークはアクシデントと言うことで特に怒ってもいなかった上、『ホーク・ウォリアーの腕を折った男』という肩書きも出来たので、当時は結果的にはプラスになったと思われる)。 メガネをかけてインテリギミックを使おうとしたことがあるが、すぐやめてしまった。 体育科の教員免許を持っており上述の通り元公務員でもある。 元夫人は、元プロ野球選手・近藤昭仁(元横浜ベイスターズ初代監督→元千葉ロッテマリーンズ監督→元読売ジャイアンツヘッドコーチ)の次女で元女優の近藤典子。そのため、中西は近藤の元娘婿にあたる。 メジャー団体では数少ない関西弁で喋るレスラー(当時、メジャー団体では大相撲の慣例にならい方言禁止の風習があった)だったが、2002年にカール・ゴッチ宅を訪問してからはたどたどしい標準語を話すようになった(対照的に同じ第三世代の天山広吉は以前より関西弁を話す機会が増えた)。現在は元の関西弁に戻りつつあるようである(前田日明や金本浩二はそれ以前に関西弁で喋ってはいた)。 2003年3月に「中西政権が始まるぞ」と試合後コメントしたが、長い間始まる様子は見られていなかった。これに関しては当時新日本の社長だった藤波も「中西は会社がプッシュしてあげようとした時にいつも波に乗れない」と雑誌のインタビューに答えていた。しかし、2009年5月に王者に就き、初の政権が誕生した。 実家は京都では有名な茶農家である。 アマレスの技術はかなりのものであるはずが、同年代であり同じくアマレス経験のある永田の妬みにより、野獣キャラを押しつけられることとなり、得意のアマレスのうまさをアピールすることはできなくなってしまった。 『さんまのSUPERからくりTV』のコーナーの一つである「熱血プロレスラー中西学のお悩み相談バーベキュー相談亭」ではおぎやはぎ、駒田健吾アナとともに相談者の相談に乗っているが、結局は解決には至らず中西の珍発言に注目が集まっている。初めの主張とはまったく逆になっていることも少なくない。 上記の『さんまのSUPERからくりTV』の特番で、子供に勇気を与えるためと題して、705kgのキャンピングカーを50m引っ張るギネスブック記録に挑戦。持ち前の怪力をいかんなく発揮し、計測タイムはギネス記録を更新した(成功した際、明石家さんまに「これから兄さんと呼ばせてもらいます、これからは明石家学と名乗ります」と言い、さんまにチョット引かれていた)。 専修大学時代、寮で洋物のアダルトビデオを見つつ「オーイェー!!」などと叫びながら何やらやっていたところを後輩で寮の同室だった秋山準に何度か目撃されている。なお、お互いがプロになってから2009年現在で二度対戦しており、どちらも秋山が勝利している。 新日本プロレスのエンターテイメント系興行「WRESTLE LAND」ではそのキャラクターを余すところ無く発揮し、ファンに受け入れられている。後楽園ホールにて行われた「WRESTLE LAND 9th」では時間無制限1本勝負“権力の象徴”争奪3WAYラダーマッチ『棚橋弘至 vs TARU vs 中西学』に勝利し、ナカニシ・ランド開催の権利を得た。なお、権力の象徴とは、天井から吊るされた白の捻りハチマキ。 2007年、新垣結衣主演映画「恋するマドリ」にレスラー役として出演する。 2007年5月、「美味紳助」(テレビ朝日)で、健啖家と見られる4人の「ある一日のカロリー摂取量」を栄養士同伴で徹底調査するという企画に、フードレポーターの彦摩呂、女子シンクロナイズドスイミング日本代表の原田早穂、大食いタレントの三宅智子らと共に出演。「競争」ではなく、栄養士がいるという以外は極めて普通の日常状態の食事での測定であったが、当初「レスラーは意外と食わんよ」と言っていた島田紳助の予想を覆す約8,500kカロリーを摂取。しかし1位の三宅が約8,600kカロリーとなり、中西は僅差の2位であった。 2010年6月3日放送の「全種類。」での企画「大食いチャレンジ」にて「ステーキハウス・リベラ」で大学時代に挑戦して完食出来なかったチャレンジメニュー30分で500gステーキ&大盛りライスのセットを3セットをみごと完食し、約20年ぶりのリベンジを果たした。 趣味はデビュー時から、現在に至るまで「食べ歩き」。ちなみに、好物は毎年変わっている(週刊プロレス選手名鑑より)。 2007年7月、週刊プロレスの記事によると、身体から脂肪を省いた除脂肪量が99.5kgであり、いまだ筋肉を増やし続けている。 最近はワールドプロレスリングの実況で「ゴリラ」と呼ばれている。特に吉野アナには「霊長類最後のゴリラ」「進化を忘れた類人猿」「ゴリラはやっぱり空を飛べるんですっ!!」とゴリラネタを多数叫ばれている。ほかにもアルゼンチン・バックブリーカーを繰り出したとき、ミサイルキックを繰り出したときなどにお決まりのゴリラネタを叫ばれることが多い。 新日本プロレスの選手では、蝶野正洋に次いでメディア出演が多い。蝶野が教養番組等に出ているのに対し、中西は天然ボケキャラとして、出演のほとんどがバラエティ番組である。 現在は、横浜市鶴見区に在住。その縁から、鶴見区区制80周年記念事業に出席した。 テレビ朝日系『シルシルミシル』2010年4月7日放送分のコーナー「すぐ調べる課」に出演。クロマグロを手づかみで捕らえるという企画に挑戦するも、カナヅチであることが判明した。 獲得タイトル [編集] 新日本プロレス [編集] IWGPヘビー級王座(1回) IWGPタッグ王座(3回) 1999年G1 CLIMAX優勝 他団体 [編集] NWAインターコンチネンタルタッグ王座 レスリング [編集] 1989年 レスリング 全日本選手権 フリースタイル 100kg級 優勝 1990年 レスリング 全日本選手権 フリースタイル 100kg級 優勝 1991年 レスリング 全日本選手権 フリースタイル 100kg級 優勝 1992年 レスリング 全日本選手権 フリースタイル 100kg級 優勝 |
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