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【2025/05/04 18:39 】 |
中邑真輔
中邑 真輔(なかむら しんすけ、男性、1980年2月24日 - )は、日本のプロレスラー、総合格闘家。画家。京都府峰山町(現・京丹後市)出身。新日本プロレス(以下新日本)所属。京都府立峰山高等学校、青山学院大学卒業。
目次 [非表示]
1 来歴
1.1 最年少IWGP王者誕生・総合格闘技参戦
1.2 ヒールターン
1.3 IWGP王座統一、ノア対抗戦
1.4 CHAOS結成、三度目のIWGP王座
2 芸術家として
3 その他
4 得意技
4.1 フィニッシュ・ホールド
4.2 打撃技
4.3 投げ技
4.4 関節技
4.5 飛び技
5 タイトル
6 入場テーマ曲
7 総合格闘技
8 脚注
9 関連項目
10 外部リンク
来歴 [編集]

青山学院大学ではレスリング部と美術部に同時に在籍し、レスリング部で主将を務め活躍した。並行して和術慧舟會RJWでも1期生として練習を行っていた[1][2]。画家としても展覧会に出展している。
2002年、新日本プロレスに入団(同期は山本尚史、田口隆祐、後藤洋央紀、長尾浩志)。同年8月29日、日本武道館における安田忠夫戦でデビュー、セコンドには当時引退をして中邑を指導していた木戸修が付いた。レスリングでの実績とデビュー前に総合格闘技のトレーニングを行っていたことから、当時の新日本の格闘技路線の申し子として期待を受け、デビュー戦後はシリーズには帯同せずLA道場で総合格闘技のトレーニングを重ねるという新人としては異例の待遇を受けた。
2002年12月31日、INOKI BOM-BA-YE 2002におけるダニエル・グレイシー戦で総合格闘技初参戦、2003年5月2日には新日本「アルティメット・クラッシュ」でヤン・ノルキヤと対戦し総合格闘技初勝利を収めた。
2003年6月13日、高山善廣が所有していたNWFヘビー級王座に挑戦。敗れはしたものの、高い評価を受ける。同年8月にはデビュー1年にも満たないキャリアながらG1 CLIMAXへ初出場を果たした。
最年少IWGP王者誕生・総合格闘技参戦 [編集]
2003年12月9日、大阪府立体育会館大会で天山広吉を破り、初挑戦にしてIWGPヘビー級王座を獲得。デビューから史上最速、最年少での王座獲得であった。同年大晦日のK-1 PREMIUM 2003 Dynamite!!ではアレクセイ・イグナショフと対戦するが、イグナショフの膝蹴りを受けダウンし、すぐに立ち上がるもレフェリーの平直行が即座にTKOを宣告し敗北。中邑側は抗議を行い、審議の結果無効試合となった。2004年1月4日、高山を破ってNWFヘビー級王座を奪取(その後封印)。2004年5月22日、K-1 ROMANEXでイグナショフと再戦しギロチンチョークで勝利。
この頃から同じく次期エース候補である棚橋弘至、柴田勝頼と共に「新闘魂三銃士」と称されたが、2005年の柴田の退団によって団体の新三銃士構想は立ち消えとなった。
2004年11月3日、大阪ドーム大会で中西学と組んで藤田和之、ケンドー・カシン組と対戦したがピンフォール負け。試合後にアントニオ猪木から鉄拳制裁を受けた。
2004年12月11日に棚橋弘至と組み、IWGPタッグ王者決定戦にて佐々木健介、鈴木みのる組と対戦。棚橋が前日に左膝を負傷するアクシデントが見られたが、猛攻の意地で耐え抜き最後は棚橋が鈴木からドラゴン・スープレックス・ホールドでピンフォール勝ちを収め、第47代IWGPタッグ王座に就き、2005年10月30日に陥落するまでに4度の防衛を果たした。
2005年1月4日、棚橋を破ってIWGP U-30無差別級王座を奪取。3月26日に全日本プロレスに流出したIWGPヘビー級王座に挑戦。対戦相手の小島聡の右腕を潰すと予告し、「負けたら丸坊主になる」とまで発言しこの一戦に望んだが時間切れ引き分けに終わり結局、両方とも実現することは無かった。
ヒールターン [編集]
2006年1月4日、IWGPヘビー級王者ブロック・レスナーに挑戦したが、その圧倒的なパワーに屈し、10分もかからずに完敗を喫した。
2006年3月、会社は無期限の海外遠征に出すことを決意。この遠征は元IWGP王者の肩書が団体・対戦相手を制限するため、覆面レスラーとして行うと発表された。かつては海外遠征からの帰国後、王者となるのが日本プロレス界におけるレスラーの格上げの常套手段であったが、中邑の場合はこの手順を逆転させた稀な例である。遠征先では試合を一切行なわずに新日本ロス道場で汗を流し、9月24日に帰国の挨拶。
2006年10月9日、蝶野正洋とタッグを組み、ベビーフェイスからヒールへの路線変更を図った。また、半年間の海外修行でビルドアップされた肉体に合わせ、コスチュームもロングタイツからショートタイツに変更。長州力、中西学組相手に凱旋試合を行い、新技ランドスライドで長州から3カウントを奪った。
同月に行われたG1 TAG LEAGUEでは蝶野とタッグを組んでエントリー。決勝トーナメントにてジャイアント・バーナード、トラヴィス・トムコ組を撃破し決勝戦で棚橋、金本浩二組の王者タッグと対戦。最後は金本をランドスライドで叩き付け優勝。試合後に蝶野、バーナード、トムコと共に蝶野政権を築くと宣言。
2006年12月10日にライバル棚橋の持つIWGPヘビー級王座に挑戦するが、ドラゴン・スープレックスで敗れ王座返り咲きはならず。
2007年3月、頸椎を傷め戦線を離脱。8月12日、G1 CLIMAXの両国国技館において、決勝トーナメントまでコマを進めるも準決勝で永田裕志に敗北。その代償も大きく、肩鎖関節靭帯断裂および脱臼で3か月間の絶対安静と診断された。
2007年8月26日に行われたLAST OF C.T.U興行の全試合終了後に稔、ミラノコレクションA.T.、後藤洋央紀、プリンス・デヴィットと共闘することを選択。因みに当時はBlackとユニット名が公式サイトで明らかになっていたが、稔曰く「蝶野のイメージが強すぎる」とのことでファンにユニット名を募集していた(後のRISE)。9月1日に結婚披露宴を行なった[3]。
2007年11月11日に復帰戦を行い、メインイベントのIWGPヘビー級選手権試合終了後「次はこの俺と闘え」とマイクアピール。すると真壁刀義が乱入し「病み上がりで挑戦できるほどIWGPは甘くねぇんだよ」とかみつき、12月9日の挑戦者決定戦にて真壁を下した。
IWGP王座統一、ノア対抗戦 [編集]
2008年1月4日、IWGPヘビー級王座を賭けて棚橋弘至と激突。ランドスライドで棚橋を破り、第48代IWGPヘビー級王者となった。2月17日には3代目IWGPヘビー級王座を所持するカート・アングルとベルト統一戦を行い腕ひしぎ逆十字固めで見事タップを奪い、ベルト統一。約1年半に渡って新日本を悩ませていた3代目ベルトを取り返すことに成功。これに伴い4代目のIWGPベルトの制作が決定。その後、棚橋弘至を相手に防衛を果たしたが4月27日、武藤敬司にムーンサルトプレスで敗れ、IWGPヘビー級王座から陥落した。
2009年1月4日、後藤洋央紀と組んでプロレスリング・ノアの三沢光晴、杉浦貴組と激突。最後は杉浦を腕ひしぎ逆十字固めでタップを奪い勝利。以降、新日本とNOAHの対抗戦が継続されていった。2月15日には棚橋弘至とIWGPヘビー級王座を賭けて8度目の対戦したが敗北。
2009年3月1日にNOAHの日本武道館大会にミラノコレクションA.T.と共に乗り込み、杉浦貴、潮崎豪組と対戦。ミラノが潮崎にピンフォールを奪われ敗北を喫し、2度目の勝利はならず。同月に行われたNEW JAPAN CUPでは、1回戦で真壁刀義を破ったが、2回戦で後藤に敗れた。
CHAOS結成、三度目のIWGP王座 [編集]
2009年4月5日、真壁刀義とのシングルで対戦し、真壁と同ユニットG・B・Hに所属していた矢野通が真壁を椅子で殴打し、アシストを受ける形となった中邑が勝利を奪った。その後、G・B・Hを離脱した矢野らと共にCHAOSを結成。コスチュームも黒のロングタイツに変えた。CHAOSの他のメンバーのようなあからさまな反則やヒール行為などは行っていないが、ファイトスタイルが今まで以上に殺伐としたものになり、不気味さ、恐ろしさの観点から強さをかもしだすようになった。
2009年8月に行われたG1 CLIMAXでは全ての相手をボマイェ(顔面への膝蹴り)で白星を奪取し逸早く決勝トーナメントへ進出したものの決勝で真壁刀義に敗れ準優勝で終わる。翌日、準決勝で対戦した棚橋弘至が怪我により王座を返上。9月27日にG1で敗北した真壁とIWGPヘビー級王者決定戦にて再戦。これをボマイェで勝利を収め、第53代IWGPヘビー級王者に載冠。なお、その日は最年少で同王座を獲得したときのテーマ曲Moving Cityで入場した。
2009年10月12日にZERO1の大谷晋二郎、11月8日の棚橋弘至、12月5日の永田裕志と防衛戦を行い、いずれもボマイェで防衛を重ねていった。
2010年1月4日、高山善廣と6年振りに激突。激しい攻防の末、中邑がボマイェで勝利。さらに2月14日では中西学と対戦。この試合で中西は荒鷲掴みという通称“ボマイェ返し”を開発してきたが、中邑も“ボマイェ返し返し”として荒鷲掴みをクリアし5度目の防衛に成功した。4月にはNEW JAPAN CUP優勝者の後藤を破り、6度目の防衛に成功する。
しかし、5月3日の真壁刀義との対戦で敗れ、王座を奪われる。さらに、試合最中に真壁の雪崩式パワー・スラムを受けた際に、古傷である左肩を負傷してしまう(肩鎖関節損傷)。その後も2大会はケガをおして出場するが、ドクターストップがかかり、治療に専念するため、長期欠場となった。
その後6月19日の復帰戦でダニエル・ピューダーと対戦しボマイェで勝利を収めた。 さらに、前チャンピオンのリマッチ権により真壁刀義にIWGP挑戦を表明した。
芸術家として [編集]

中邑はペインティングを得意としている。学生時代からレスリング部と美術部を掛け持ち、双方で活躍してきた。岡本太郎にインスパイアされWEB上で彼の描く「プロレスラー」という作品が公開されている。そして自ら描いた100点を越える絵画をもって、以下の絵画展を主催した。
『TOKYO WRESTLING ARTS』中邑真輔 vs ロジャー・ミカサ 現代美術展
2008年12月12日 - 18日
東京・青山SPACE INTART GALLERY
その他 [編集]

今でこそ総合格闘技色の強いスタイルであるが、学生時代はインディーから女子プロレスまで追いかける生粋のプロレスマニアであった。LLPWの旗揚げ当時のメンバーを暗唱できるなど、知識も豊富である。2008年2月に放送されたFIGHTING TV サムライの『P-1選手権 第1回プロレスクイズ王決定戦』では新日本チームの一員として出場し(メンバーは他に海野宏之+週刊プロレス記者1名)、その豊富な知識量の一端を披露してチームの優勝に貢献した。
高校の先輩に野村克也がいる。
なおインタビューにおいて、ファン時代にスコーピオのファンサービスに感銘を受け、プロになった現在、彼のファンサービスの良さを目標にしていると語っている。
他にも、テレビにも度々出演しており、『恋するハニカミ!』(相手は「当時は年下」の夏川純)や『クイズプレゼンバラエティー Qさま!!』などのバラエティ番組、マクドナルドや資生堂unoのCMに出演した。
得意技 [編集]

フィニッシュ・ホールド [編集]
ボマイェ(スワヒリ語: Boma Ye)
現在のフィニッシュ・ホールド。助走をつけてから仕掛ける顔面への膝蹴り。CHAOS結成後から使い始めている。名称はスワヒリ語で「kill you」の意でアントニオ猪木の入場テーマ曲中の台詞「ボンバイエ」と同義。下記にあるようにナックルパートの後に放ったり、後頭部へ放つこともある。また、ガードされることもあるが、場合によっては右足で仕掛けると見せかけて一旦動きを止めてから、左足で決めるパターンを使う。(ボマイェ返し返し) 本人曰く、この技は、高山善廣の必殺技であるニー・リフトを意識して使い始めたという。
打撃技 [編集]
ナックルパート
主に打撃合戦中の際、不意に相手の喉元へ食い込ませる。この技から、上記のボマイェに移行することもある。
ゼロ戦キック
助走をつけてジャンプし、脛の外側の部分で相手の顔面を蹴る技。レッグラリアットともいえる。主にカウンターで使用する。
キック
ローキック、ミドルキック、ハイキックそれぞれを使う。CHAOS結成後は、主にこの技を使って試合を作る。
ライダーキック
顔面への跳び蹴り。
投げ技 [編集]
ランドスライド
肉体改造後のフィニッシュ・ホールド。ファイヤーマンズキャリーで相手をかつぎ、前方へ後頭部から背中にかけて叩き付ける。ハリケーン・ドライバーと同型の技。2008年1月4日の棚橋戦では、雪崩式でこの技を使った。ボマイェを取得してからは、あまりこの技を使用していない。
ダブルアーム式パイルドライバー
ダブルアームで抱え上げ、そのまま自身が尻から着地し相手の頭をマットに落下させる危険技。2008年1月4日の棚橋戦で初公開。フィニッシュ・ホールドとして使うこともある。
リバースパワースラム
中邑のオリジナル技。相手を背後から抱え上げ、パワースラム状に投げ落す技。綺麗に決まれば相手はパワースラムと表裏逆に落ちることとなり、顔面や胸部等をマットへ打ち付けるのだが、タイミングや角度によっては相手が頭部や肩から先に落ちている場合もあり危険な技とも言える。
タイガー・スープレックス
2008年頃から使うようになった技。基本的に大一番でしか使用しない。クラッチは三沢式。
ジャーマン・スープレックス
デビュー当時から現在も使い続けている技。高山善廣や吉江豊などの巨漢レスラーも投げたことがある。
関節技 [編集]
シャイニング・トライアングル
肉体改造前のフィニッシュ・ホールド。相手が片膝を立てて屈んでいる状態で、相手の片膝を踏み切って相手の上体に跳びつき素早く三角絞めを極める。現在はほとんど使用していない。
腕ひしぎ十字固め
デビュー時から愛用している必殺技。特に相手のラリアット等を切り返しての跳びつき腕ひしぎ十字固めは非常に素早くフィニッシュとして絶大な効果を発揮している。
スタンド式腕ひしぎ十字固め
シャイニング・トライアングルを決め、そこから首に巻きつけた足を外して腕ひしぎ十字固めに移行する。この技で、天山広吉を破り、デビューから史上最速最年少でIWGPヘビー級王座を獲得した。
スリーパーホールド
この技から前途のリバースパワースラムへ移行するパターンが多い。CHAOS結成後から使用するようになる。
フロントネックロック
フロントチョークと同様の体勢から首を絞めるのではなく、相手の首を曲げることにより、頸椎へのダメージを狙う首関節技。CHAOS結成頃から使用し始めている。この技でギブアップを奪うことはないが、相手のスタミナを削ぐ繋ぎ技としても使われる。
飛び技 [編集]
ムーンサルトプレス
2008年のIWGP王座獲得以降、一時的に使用した技。基本的に2回連続に放っていた。また、実況がよくムーンサルトとエルニーニョを間違ってしまうことがあった。
エルニーニョ
片足をセカンドロープに乗せた状態からのムーンサルトプレス。技名の由来は2004年のG1 CLIMAXに向け、「エルニーニョ現象を起こす」とマスコミに向けて発したコメント。この技も今となっては見られなくなった。
羅骭下(らかんか)
コーナーから放つ、相手の顔面に向けてのニー・ドロップ。2004年のG1 CLIMAXにおける永田戦で初公開。なお、技名は漢方薬の原料であるラカンカ(羅漢果)をもじったものとされる(「骭」は「脛(の骨)」の意)。現在は使用していない。
その他にも総合参戦時には「玄米ドライバー」なる技を予告していたが、未だに公開していない。
タイトル [編集]

IWGPヘビー級王座(第34代、第48代、第53代。第34代獲得時に於ける23歳8か月での戴冠は史上最年少記録)
NWFヘビー級王座(第21代・獲得後、封印)
IWGP U-30無差別級王者(第2代・獲得後、封印→返上)
IWGPタッグ王座(パートナーは棚橋)
入場テーマ曲 [編集]

Subconscious
Moving City(旧テーマ)
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【2010/12/28 19:10 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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