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プリンス・デヴィット(Prince Devitt、本名:ファーガル・デヴィット(Fergal Devitt)、男性、1981年7月25日 - )は、新日本プロレス所属のプロレスラー。アイルランド・ダブリン出身。
目次 [非表示] 1 来歴 2 得意技 3 連携技 4 入場テーマ曲 5 獲得タイトル 6 脚注 7 外部リンク 来歴 [編集] 少年時代は10年間サッカーに熱中。テレビでプロレス観戦したのをきっかけにダイナマイト・キッドに憧れ、1995年に15歳で英国NWAのトレーニングを始める。2001年2月に8人タッグ戦でデビュー。2005年10月に英連邦王座を獲得し、同年11月末に米ロサンゼルスの新日本道場に入門。その後、サイモン猪木社長のスカウトにより2006年3月正式に新日本プロレスに入団した。同年4月16日、改めてヤングライオンとして再デビュー。 その後は、C.T.Uを経てRISEに入り、2008年1月27日に稔とのタッグチーム「プリンス・プリンス」でTAKAみちのく・ディック東郷が所持するIWGPジュニアタッグに挑戦し、第19代ジュニアタッグ王座を獲得したものの獣神サンダー・ライガー・AKIRA組に敗れ王座から陥落。同年7月、ライガー・AKIRA組と再戦し、勝利を果たし第21代ジュニアタッグ王者に載冠。 2009年、田口隆祐とのタッグチーム“Apollo 55”を結成し、ジュニアタッグ王者アレックス・シェリー・クリス・セイビン組に挑戦。これに勝利し、第24代ジュニアタッグ王座を獲得した21日には、ミラノコレクションA.T.、タイチの“ユニオーネ”相手に初防衛を果たし9月にはモーターシティマシンガンズと再戦を行い勝利し2度目の防衛に成功した。 11月に行われたG1 TAG LEAGUEではApollo 55でエントリー。スピード溢れる連携を駆使して数々のヘビー級タッグチームと互角に張り合い、Bブロック2位で通過。準決勝では中邑真輔、矢野通組を撃破し決勝進出。決勝でジャイアント・バーナード、カール・アンダーソンと対決するも、あえなく敗戦。しかし、ジュニアながらも準優勝という大健闘を見せ付けた。 11月29日、ZERO1の天下一Jr.に初参戦。外敵ながら優勝候補と称され、決勝に進出するも日高郁人に敗れ準優勝に終わる。12月4日に金本浩二、吉橋伸雄組とタイトルマッチを行い3度目の防衛に成功。 12月にはSUPER J-CUP5th STAGEにエントリー。1回戦で青木篤志を撃破し、2回戦の男色ディーノには惑わせられながらも勝利し、決勝でプロレスリング・ノア所属の丸藤正道と対戦。最後はポールシフトで敗れたものの、互いに抜群の身体能力の高さを誇り、屈指の名勝負を繰り広げた。 2010年1月4日ではCMLLの刺客として送られたアベルノ、ウルティモ・ゲレーロ組と対戦。両者派手な技、アピールとスピード駆使して最後はブラックホールバケーションで勝利。4度目の防衛に成功。 2月14日に5度目の防衛戦として邪道、外道が挑戦する予定だったが、邪道が2週間前の試合で頸椎を負傷するアクシデントのため、外道は急遽ディック東郷を連れて挑戦(当日、入場テーマ曲が鳴るまで誰が登場するのか分からなかった)。最後はブラックホールバケーションで外道を黙らせ5度目の防衛に成功。試合後、Apollo 55のセコンドについていたミラノがリングに上がり外道にトラース・キックを発射させ、共に喜びを分かち合った。 2010年春にはそれまでの合宿所住まいから独立したため、他の外国人レスラー同様の契約選手に移行している[2]。 2010年6月にBEST OF THE SUPER Jr.を初めて制する。同大会の前に実家に帰っていたところ、アイスランドの火山噴火の影響で日本行きの飛行機が飛べず(2010年のエイヤフィヤトラヨークトルの噴火による交通麻痺)、直前まで大会への参加そのものが危ぶまれる中での勝利だった[2]。そして優勝者に与えられるIWGPジュニアヘビー級王座挑戦権を早速行使し、6月19日にチャンピオンの丸藤正道と対戦。通算3度目の対戦で初めて勝利し、同王座を新日本プロレスに取り戻した。 2010年10月11日、新日本両国大会では飯伏幸太&ケニー・オメガの「ゴールデンラヴァーズ」と戦いIWGPジュニアタッグ防衛に失敗するも、プロレス大賞「ベストバウト賞」に選ばれた。(プロレス大賞ベストバウトにJr.ヘビー級タッグ戦が選ばれたのは史上初。) 得意技 [編集] ブラディ・サンデー 現在の主なフィニッシュ・ホールド。ハーフハッチの体勢から相手の身体を水平以上に持ち上げてフェースバスター気味に落とすDDT。対戦相手によっては頭から垂直に落とすこともある。2009年、スーパーJカップでの対青木篤志戦で初披露。そのときの公式記録では垂直落下式DDTと記載された。また、2010年6月19日の丸藤戦では、雪崩式を披露し、勝利を収めている。技名はデヴィットの故郷・アイルランド出身のロックバンド、U2の楽曲から。 リバースブラディ・サンデー リバースDDTの体勢から相手の片足を掴んで持ち上げ、軽くジャンプしてから落とす技。橋誠の天誅カラス落としと同形。 新型プリンスズ・スロウン 下記の技の次に開発されたプリンスズ・スロウンの進化型。フィニッシュ・ホールドとしても使う。カナディアン・バックブリーカーの体勢から、相手の体を回転させ、その勢いで仰向けに寝ながら両膝を相手の腹部に打ち付ける。 プリンスズ・スロウン 初期のフィニッシュ・ホールド。ファイヤーマンズキャリーに担いで相手を落としつつ、自分は両膝を立てたまま仰向けに寝ることで腹部を打ち据える変形のストマック・ブロック。最近はフットスタンプへの繋ぎ技。HARASHIMAの山折りと同型。 ジャックナイフ式エビ固め プリンスズ・スロウンの後にこの技でフォールを取る。 ダイビング・フット・スタンプ コーナーに登る際に「デンジャラス!」という掛声とともに行う。プリンスズ・スロウンの次の必殺技としているが、現在は布石として使用。 バッククラッカー 変形バックブリーカー。相手の背中に両膝を押し当ててから後ろに倒れこむことによって背中に衝撃を与える技。WWE所属のカリートのオリジナル技。プリンスズ・スロウンやダイビング・フット・スタンプと共に大技として使っている。 ブレーンバスター 「ブレーンバスター!」という掛け声とともに行うが、だいたいは返される。 垂直落下式も見せるがその際は声を放つことは少ない。 トペ・コン・ヒーロ ノータッチ式で時に場外の鉄柵を越える跳躍を見せる。コーナーからやスワンダイブ式も見せる。デヴィット最大の見せ技とも言える。2009年1月4日の東京ドームでコーナーから放ったその際、床に直接落ちたため試合終了までリングに上がれなかった。 オーバーヘッドキック ハンマースローでラリアット等を返す時に使う。自分がかなりのダメージを負っている際に出されるため主に試合の分岐点といえる技の一つ。 スクリュー・ハイキック 相手が起き上がるタイミングをはかって待機し、一回転して延髄斬りを放つ。 コーナーからのハイキック 自身がコーナー際のエプロンに立っている際、片腕でトップロープを掴んだまま軽くジャンプして延髄斬りのように放つハイキック。コーナーからの攻撃を狙っている状態で、相手が近付いてきた際迎撃で使用することが多い。ミスティコや丸藤正道も同じような蹴りを放つ。 デヴィットエンド2 相手の左手足に自分の右足を引っ掛け、顎をチンロックで捕らえるデヴィットの数少ないサブミッション技だったが、最近では見られない。 デヴィットデストロイヤー パワーボムで相手を叩き付け、再度持ち上げてからのプリンスズ・スロウン。上記の技と同じく使用頻度が少なかった。 連携技 [編集] ブラックホールバケーション 田口隆祐との合体技。田口がどどんの体勢で投げた相手にデヴィットがプリンスズ・スロウンを放つ。 ムーンランディング 田口隆祐との合体技。田口がパワーボム、デヴィットのバッククラッカーをミックスした荒技。しかし、たまにしか使わない。 入場テーマ曲 [編集] You're The Best Around / KARATE KID(サントラ) 獲得タイトル [編集] IWGPジュニアヘビー級王座:(第60代) IWGPジュニアタッグ王座:4回(第19代、第21代のパートナーは稔。第24代、第26代のパートナーは田口隆祐) BEST OF THE SUPER Jr 優勝:1回(2010年) 準優勝:1回(2009年) G1 TAG LEAGUE 2009 準優勝(パートナーは田口隆祐) 天下一Jr. 2009 準優勝 SUPER J-CUP 5th STAGE 準優勝 SUPER J TAG TOURNAMENT 1st 準優勝(パートナーは田口隆祐) J SPORTS CROWN 2010 優勝(パートナーは田口隆祐・後藤洋央紀) PR |
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来歴 [編集]
全国少年レスリング連盟育成委員長を務める平澤光志を父親に持ちその父親が営むクラブで3歳からレスリングを始めたとされる。 高校は霞ヶ浦高等学校、大学は専修大学とレスリングの名門校を渡り歩いており、専修大学時代には馳浩の指導も受けている。 高校、大学を通じて国体、全日本学生選手権で活躍した。 その後、国語教員免許を取得し大学卒業後は医療機器販売メーカー“竹山”に就職。営業職をしながらレスリングを続け、2004年の国体ではフリースタイル96kg級で3位という成績を残した。 会社を辞め、2005年3月に新日本プロレスに入団。また、練習生時代に全日本社会人選手権に出場しフリースタイル120kg級で優勝。2006年1月28日、後楽園ホールの飯塚高史戦でデビュー。4月26日、裕次郎戦で初勝利を果たした。その後、ZERO1-MAX(現:ZERO1)との対抗戦や、永田裕志とのタッグ“青義軍”でG1 TAG LEAGUEにエントリーするなどと様々な経験を積んでいる。 2009年1月4日、レッスルキングダムIII IN 東京ドームの第0試合に出場。 7月19日に昨年3月2日に入籍を済ませている歯科助手の女性と札幌市内のホテルで結婚披露宴を行った。 8月9日にはTAJIRIと初対戦。バズソーキックでピンフォールを奪われ、試合後にはグリーンミストを喰らうという屈辱を味わった。9月に 永田裕志、井上亘、スーパー・ストロング・マシンと共に青義軍を結成した。 2010年9月、プエルトリコへ無期限の武者修行の旅へ。現地でのリングネームは「ヒデオ・サイトー」。 得意技 [編集] ヒラボトム ロック・ボトムと同型。 逆エビ固め サイド・スープレックス ジャーマン・スープレックス・ホールド 平澤の場合、そのままブリッジで固めずに自分の体を捻って覆いかぶさるような形でフォールに向かう。 ナガタロックII グラウンド式腕極め顔面締め。 永田裕志とのタッグでは平澤が同技、永田がアンクルロックを極める連携技が見られる。 ダイビング・ヘッドバット 入場テーマ曲 [編集] Spread.Wing-beat Root and Roots / TSUTOMU TOYA (AN INFINITE STRING に収録) その他 [編集] 高校総体グレコローマン76kg級で準優勝、全日本大学グレコローマン選手権76kg級3位という成績を残す平澤昌大を双子の弟を持つ。 新日本に入団する前、大学時代より交流のある高橋裕二郎から「会社に辞表をだすのは入門テスト合格してからでいいんじゃない?もし不合格だったら生活できなくなるよ」と言われるも「絶対に合格します!今の会社に未練はありません!」と宣言し見事合格した。 邪道からは「にょろにょろ」の異名で呼ばれるなど周囲からも愛されている。 入門1日目にレッドシューズ海野に飲まされ泥酔し、中邑真輔を「真ちゃん」と馴れ馴れしく呼び、安沢明也を殴り目から流血させた。 寮で同部屋の高橋裕二郎を睡眠不足に陥れるほどの大音量のいびきをかくらしい。 特技はロボットダンス。 |
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中邑 真輔(なかむら しんすけ、男性、1980年2月24日 - )は、日本のプロレスラー、総合格闘家。画家。京都府峰山町(現・京丹後市)出身。新日本プロレス(以下新日本)所属。京都府立峰山高等学校、青山学院大学卒業。
目次 [非表示] 1 来歴 1.1 最年少IWGP王者誕生・総合格闘技参戦 1.2 ヒールターン 1.3 IWGP王座統一、ノア対抗戦 1.4 CHAOS結成、三度目のIWGP王座 2 芸術家として 3 その他 4 得意技 4.1 フィニッシュ・ホールド 4.2 打撃技 4.3 投げ技 4.4 関節技 4.5 飛び技 5 タイトル 6 入場テーマ曲 7 総合格闘技 8 脚注 9 関連項目 10 外部リンク 来歴 [編集] 青山学院大学ではレスリング部と美術部に同時に在籍し、レスリング部で主将を務め活躍した。並行して和術慧舟會RJWでも1期生として練習を行っていた[1][2]。画家としても展覧会に出展している。 2002年、新日本プロレスに入団(同期は山本尚史、田口隆祐、後藤洋央紀、長尾浩志)。同年8月29日、日本武道館における安田忠夫戦でデビュー、セコンドには当時引退をして中邑を指導していた木戸修が付いた。レスリングでの実績とデビュー前に総合格闘技のトレーニングを行っていたことから、当時の新日本の格闘技路線の申し子として期待を受け、デビュー戦後はシリーズには帯同せずLA道場で総合格闘技のトレーニングを重ねるという新人としては異例の待遇を受けた。 2002年12月31日、INOKI BOM-BA-YE 2002におけるダニエル・グレイシー戦で総合格闘技初参戦、2003年5月2日には新日本「アルティメット・クラッシュ」でヤン・ノルキヤと対戦し総合格闘技初勝利を収めた。 2003年6月13日、高山善廣が所有していたNWFヘビー級王座に挑戦。敗れはしたものの、高い評価を受ける。同年8月にはデビュー1年にも満たないキャリアながらG1 CLIMAXへ初出場を果たした。 最年少IWGP王者誕生・総合格闘技参戦 [編集] 2003年12月9日、大阪府立体育会館大会で天山広吉を破り、初挑戦にしてIWGPヘビー級王座を獲得。デビューから史上最速、最年少での王座獲得であった。同年大晦日のK-1 PREMIUM 2003 Dynamite!!ではアレクセイ・イグナショフと対戦するが、イグナショフの膝蹴りを受けダウンし、すぐに立ち上がるもレフェリーの平直行が即座にTKOを宣告し敗北。中邑側は抗議を行い、審議の結果無効試合となった。2004年1月4日、高山を破ってNWFヘビー級王座を奪取(その後封印)。2004年5月22日、K-1 ROMANEXでイグナショフと再戦しギロチンチョークで勝利。 この頃から同じく次期エース候補である棚橋弘至、柴田勝頼と共に「新闘魂三銃士」と称されたが、2005年の柴田の退団によって団体の新三銃士構想は立ち消えとなった。 2004年11月3日、大阪ドーム大会で中西学と組んで藤田和之、ケンドー・カシン組と対戦したがピンフォール負け。試合後にアントニオ猪木から鉄拳制裁を受けた。 2004年12月11日に棚橋弘至と組み、IWGPタッグ王者決定戦にて佐々木健介、鈴木みのる組と対戦。棚橋が前日に左膝を負傷するアクシデントが見られたが、猛攻の意地で耐え抜き最後は棚橋が鈴木からドラゴン・スープレックス・ホールドでピンフォール勝ちを収め、第47代IWGPタッグ王座に就き、2005年10月30日に陥落するまでに4度の防衛を果たした。 2005年1月4日、棚橋を破ってIWGP U-30無差別級王座を奪取。3月26日に全日本プロレスに流出したIWGPヘビー級王座に挑戦。対戦相手の小島聡の右腕を潰すと予告し、「負けたら丸坊主になる」とまで発言しこの一戦に望んだが時間切れ引き分けに終わり結局、両方とも実現することは無かった。 ヒールターン [編集] 2006年1月4日、IWGPヘビー級王者ブロック・レスナーに挑戦したが、その圧倒的なパワーに屈し、10分もかからずに完敗を喫した。 2006年3月、会社は無期限の海外遠征に出すことを決意。この遠征は元IWGP王者の肩書が団体・対戦相手を制限するため、覆面レスラーとして行うと発表された。かつては海外遠征からの帰国後、王者となるのが日本プロレス界におけるレスラーの格上げの常套手段であったが、中邑の場合はこの手順を逆転させた稀な例である。遠征先では試合を一切行なわずに新日本ロス道場で汗を流し、9月24日に帰国の挨拶。 2006年10月9日、蝶野正洋とタッグを組み、ベビーフェイスからヒールへの路線変更を図った。また、半年間の海外修行でビルドアップされた肉体に合わせ、コスチュームもロングタイツからショートタイツに変更。長州力、中西学組相手に凱旋試合を行い、新技ランドスライドで長州から3カウントを奪った。 同月に行われたG1 TAG LEAGUEでは蝶野とタッグを組んでエントリー。決勝トーナメントにてジャイアント・バーナード、トラヴィス・トムコ組を撃破し決勝戦で棚橋、金本浩二組の王者タッグと対戦。最後は金本をランドスライドで叩き付け優勝。試合後に蝶野、バーナード、トムコと共に蝶野政権を築くと宣言。 2006年12月10日にライバル棚橋の持つIWGPヘビー級王座に挑戦するが、ドラゴン・スープレックスで敗れ王座返り咲きはならず。 2007年3月、頸椎を傷め戦線を離脱。8月12日、G1 CLIMAXの両国国技館において、決勝トーナメントまでコマを進めるも準決勝で永田裕志に敗北。その代償も大きく、肩鎖関節靭帯断裂および脱臼で3か月間の絶対安静と診断された。 2007年8月26日に行われたLAST OF C.T.U興行の全試合終了後に稔、ミラノコレクションA.T.、後藤洋央紀、プリンス・デヴィットと共闘することを選択。因みに当時はBlackとユニット名が公式サイトで明らかになっていたが、稔曰く「蝶野のイメージが強すぎる」とのことでファンにユニット名を募集していた(後のRISE)。9月1日に結婚披露宴を行なった[3]。 2007年11月11日に復帰戦を行い、メインイベントのIWGPヘビー級選手権試合終了後「次はこの俺と闘え」とマイクアピール。すると真壁刀義が乱入し「病み上がりで挑戦できるほどIWGPは甘くねぇんだよ」とかみつき、12月9日の挑戦者決定戦にて真壁を下した。 IWGP王座統一、ノア対抗戦 [編集] 2008年1月4日、IWGPヘビー級王座を賭けて棚橋弘至と激突。ランドスライドで棚橋を破り、第48代IWGPヘビー級王者となった。2月17日には3代目IWGPヘビー級王座を所持するカート・アングルとベルト統一戦を行い腕ひしぎ逆十字固めで見事タップを奪い、ベルト統一。約1年半に渡って新日本を悩ませていた3代目ベルトを取り返すことに成功。これに伴い4代目のIWGPベルトの制作が決定。その後、棚橋弘至を相手に防衛を果たしたが4月27日、武藤敬司にムーンサルトプレスで敗れ、IWGPヘビー級王座から陥落した。 2009年1月4日、後藤洋央紀と組んでプロレスリング・ノアの三沢光晴、杉浦貴組と激突。最後は杉浦を腕ひしぎ逆十字固めでタップを奪い勝利。以降、新日本とNOAHの対抗戦が継続されていった。2月15日には棚橋弘至とIWGPヘビー級王座を賭けて8度目の対戦したが敗北。 2009年3月1日にNOAHの日本武道館大会にミラノコレクションA.T.と共に乗り込み、杉浦貴、潮崎豪組と対戦。ミラノが潮崎にピンフォールを奪われ敗北を喫し、2度目の勝利はならず。同月に行われたNEW JAPAN CUPでは、1回戦で真壁刀義を破ったが、2回戦で後藤に敗れた。 CHAOS結成、三度目のIWGP王座 [編集] 2009年4月5日、真壁刀義とのシングルで対戦し、真壁と同ユニットG・B・Hに所属していた矢野通が真壁を椅子で殴打し、アシストを受ける形となった中邑が勝利を奪った。その後、G・B・Hを離脱した矢野らと共にCHAOSを結成。コスチュームも黒のロングタイツに変えた。CHAOSの他のメンバーのようなあからさまな反則やヒール行為などは行っていないが、ファイトスタイルが今まで以上に殺伐としたものになり、不気味さ、恐ろしさの観点から強さをかもしだすようになった。 2009年8月に行われたG1 CLIMAXでは全ての相手をボマイェ(顔面への膝蹴り)で白星を奪取し逸早く決勝トーナメントへ進出したものの決勝で真壁刀義に敗れ準優勝で終わる。翌日、準決勝で対戦した棚橋弘至が怪我により王座を返上。9月27日にG1で敗北した真壁とIWGPヘビー級王者決定戦にて再戦。これをボマイェで勝利を収め、第53代IWGPヘビー級王者に載冠。なお、その日は最年少で同王座を獲得したときのテーマ曲Moving Cityで入場した。 2009年10月12日にZERO1の大谷晋二郎、11月8日の棚橋弘至、12月5日の永田裕志と防衛戦を行い、いずれもボマイェで防衛を重ねていった。 2010年1月4日、高山善廣と6年振りに激突。激しい攻防の末、中邑がボマイェで勝利。さらに2月14日では中西学と対戦。この試合で中西は荒鷲掴みという通称“ボマイェ返し”を開発してきたが、中邑も“ボマイェ返し返し”として荒鷲掴みをクリアし5度目の防衛に成功した。4月にはNEW JAPAN CUP優勝者の後藤を破り、6度目の防衛に成功する。 しかし、5月3日の真壁刀義との対戦で敗れ、王座を奪われる。さらに、試合最中に真壁の雪崩式パワー・スラムを受けた際に、古傷である左肩を負傷してしまう(肩鎖関節損傷)。その後も2大会はケガをおして出場するが、ドクターストップがかかり、治療に専念するため、長期欠場となった。 その後6月19日の復帰戦でダニエル・ピューダーと対戦しボマイェで勝利を収めた。 さらに、前チャンピオンのリマッチ権により真壁刀義にIWGP挑戦を表明した。 芸術家として [編集] 中邑はペインティングを得意としている。学生時代からレスリング部と美術部を掛け持ち、双方で活躍してきた。岡本太郎にインスパイアされWEB上で彼の描く「プロレスラー」という作品が公開されている。そして自ら描いた100点を越える絵画をもって、以下の絵画展を主催した。 『TOKYO WRESTLING ARTS』中邑真輔 vs ロジャー・ミカサ 現代美術展 2008年12月12日 - 18日 東京・青山SPACE INTART GALLERY その他 [編集] 今でこそ総合格闘技色の強いスタイルであるが、学生時代はインディーから女子プロレスまで追いかける生粋のプロレスマニアであった。LLPWの旗揚げ当時のメンバーを暗唱できるなど、知識も豊富である。2008年2月に放送されたFIGHTING TV サムライの『P-1選手権 第1回プロレスクイズ王決定戦』では新日本チームの一員として出場し(メンバーは他に海野宏之+週刊プロレス記者1名)、その豊富な知識量の一端を披露してチームの優勝に貢献した。 高校の先輩に野村克也がいる。 なおインタビューにおいて、ファン時代にスコーピオのファンサービスに感銘を受け、プロになった現在、彼のファンサービスの良さを目標にしていると語っている。 他にも、テレビにも度々出演しており、『恋するハニカミ!』(相手は「当時は年下」の夏川純)や『クイズプレゼンバラエティー Qさま!!』などのバラエティ番組、マクドナルドや資生堂unoのCMに出演した。 得意技 [編集] フィニッシュ・ホールド [編集] ボマイェ(スワヒリ語: Boma Ye) 現在のフィニッシュ・ホールド。助走をつけてから仕掛ける顔面への膝蹴り。CHAOS結成後から使い始めている。名称はスワヒリ語で「kill you」の意でアントニオ猪木の入場テーマ曲中の台詞「ボンバイエ」と同義。下記にあるようにナックルパートの後に放ったり、後頭部へ放つこともある。また、ガードされることもあるが、場合によっては右足で仕掛けると見せかけて一旦動きを止めてから、左足で決めるパターンを使う。(ボマイェ返し返し) 本人曰く、この技は、高山善廣の必殺技であるニー・リフトを意識して使い始めたという。 打撃技 [編集] ナックルパート 主に打撃合戦中の際、不意に相手の喉元へ食い込ませる。この技から、上記のボマイェに移行することもある。 ゼロ戦キック 助走をつけてジャンプし、脛の外側の部分で相手の顔面を蹴る技。レッグラリアットともいえる。主にカウンターで使用する。 キック ローキック、ミドルキック、ハイキックそれぞれを使う。CHAOS結成後は、主にこの技を使って試合を作る。 ライダーキック 顔面への跳び蹴り。 投げ技 [編集] ランドスライド 肉体改造後のフィニッシュ・ホールド。ファイヤーマンズキャリーで相手をかつぎ、前方へ後頭部から背中にかけて叩き付ける。ハリケーン・ドライバーと同型の技。2008年1月4日の棚橋戦では、雪崩式でこの技を使った。ボマイェを取得してからは、あまりこの技を使用していない。 ダブルアーム式パイルドライバー ダブルアームで抱え上げ、そのまま自身が尻から着地し相手の頭をマットに落下させる危険技。2008年1月4日の棚橋戦で初公開。フィニッシュ・ホールドとして使うこともある。 リバースパワースラム 中邑のオリジナル技。相手を背後から抱え上げ、パワースラム状に投げ落す技。綺麗に決まれば相手はパワースラムと表裏逆に落ちることとなり、顔面や胸部等をマットへ打ち付けるのだが、タイミングや角度によっては相手が頭部や肩から先に落ちている場合もあり危険な技とも言える。 タイガー・スープレックス 2008年頃から使うようになった技。基本的に大一番でしか使用しない。クラッチは三沢式。 ジャーマン・スープレックス デビュー当時から現在も使い続けている技。高山善廣や吉江豊などの巨漢レスラーも投げたことがある。 関節技 [編集] シャイニング・トライアングル 肉体改造前のフィニッシュ・ホールド。相手が片膝を立てて屈んでいる状態で、相手の片膝を踏み切って相手の上体に跳びつき素早く三角絞めを極める。現在はほとんど使用していない。 腕ひしぎ十字固め デビュー時から愛用している必殺技。特に相手のラリアット等を切り返しての跳びつき腕ひしぎ十字固めは非常に素早くフィニッシュとして絶大な効果を発揮している。 スタンド式腕ひしぎ十字固め シャイニング・トライアングルを決め、そこから首に巻きつけた足を外して腕ひしぎ十字固めに移行する。この技で、天山広吉を破り、デビューから史上最速最年少でIWGPヘビー級王座を獲得した。 スリーパーホールド この技から前途のリバースパワースラムへ移行するパターンが多い。CHAOS結成後から使用するようになる。 フロントネックロック フロントチョークと同様の体勢から首を絞めるのではなく、相手の首を曲げることにより、頸椎へのダメージを狙う首関節技。CHAOS結成頃から使用し始めている。この技でギブアップを奪うことはないが、相手のスタミナを削ぐ繋ぎ技としても使われる。 飛び技 [編集] ムーンサルトプレス 2008年のIWGP王座獲得以降、一時的に使用した技。基本的に2回連続に放っていた。また、実況がよくムーンサルトとエルニーニョを間違ってしまうことがあった。 エルニーニョ 片足をセカンドロープに乗せた状態からのムーンサルトプレス。技名の由来は2004年のG1 CLIMAXに向け、「エルニーニョ現象を起こす」とマスコミに向けて発したコメント。この技も今となっては見られなくなった。 羅骭下(らかんか) コーナーから放つ、相手の顔面に向けてのニー・ドロップ。2004年のG1 CLIMAXにおける永田戦で初公開。なお、技名は漢方薬の原料であるラカンカ(羅漢果)をもじったものとされる(「骭」は「脛(の骨)」の意)。現在は使用していない。 その他にも総合参戦時には「玄米ドライバー」なる技を予告していたが、未だに公開していない。 タイトル [編集] IWGPヘビー級王座(第34代、第48代、第53代。第34代獲得時に於ける23歳8か月での戴冠は史上最年少記録) NWFヘビー級王座(第21代・獲得後、封印) IWGP U-30無差別級王者(第2代・獲得後、封印→返上) IWGPタッグ王座(パートナーは棚橋) 入場テーマ曲 [編集] Subconscious Moving City(旧テーマ) |
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中西 学(なかにし まなぶ、男性、1967年1月22日 - )は、日本のプロレスラー。京都府京都市出身。血液型A型。新日本プロレス所属。宇治高等学校(現:立命館宇治高等学校)・専修大学卒業。
目次 [非表示] 1 来歴 2 得意技 2.1 フィニッシュ・ホールド 2.2 打撃技 2.3 投げ技 2.4 飛び技 2.5 絞め・関節技 2.6 合体技 3 野人アピール 4 入場曲 5 その他 6 獲得タイトル 6.1 新日本プロレス 6.2 他団体 6.3 レスリング 7 関連項目 8 外部リンク 来歴 [編集] 宇治高等学校時代からレスリングを始める。専修大学に進学し、大学卒業後は和歌山県庁勤務を経て新日本プロレスのレスリング部門闘魂倶楽部に入門。全日本レスリング選手権大会フリースタイルで1989年から4連覇を達成。1992年のバルセロナオリンピックフリースタイル100kg級に出場し、2回戦敗退となった。 1992年、藤波辰爾のタッグパートナーという大抜擢を受け、新日本プロレスからプロデビュー。デビュー後しばらくはレスリング用のヘッドギアを着用していた。1995年3月、第6回ヤングライオン杯にて優勝。同年6月より米国武者修行へ旅立つ。若手時代は特にマサ斎藤にかわいがられ、修行先のWCWでは「世界に通用する男だから世界に通用するリングネームを使え」と、マサに命名された「クロサワ」の名で活躍した。 1996年9月に凱旋帰国。1997年には小島聡と組んで第31代IWGPタッグ王座に就く。1999年にはG1 CLIMAXで初優勝。同年、永田裕志と組んで第39代IWGPタッグ王座にも就いた。 2000年3月28日、永田・ブライアン・ジョンストン・吉江豊・福田雅一と格闘ユニット「G-EGGS」を結成。本隊内の独立した軍団として、蝶野正洋率いるヒールチーム「TEAM 2000」と抗争を展開。この頃、「P-4M」というメッセージを発信。「問題(Problem)」に「耐える(Put up)」事により「願いが叶う(Possible)」事を「約束される(Promise)」という4つのPからなるもので、これを意味する手のポーズも有る。 2003年6月29日、FEG主催の「K-1 BEAST II」でK-1ルールに初挑戦。同じくK-1初参戦であり、アマチュア相撲出身のTOA(格闘家)と対戦するが、1R右フックでKO負け。試合後の会見で前日の練習中に脚に怪我を負っていたことを告白した。 2004年、「シングルをやるために」と本隊を離脱し反体制派へ。一匹狼となり、海賊(パイレーツ)を名乗って暴れる。短期間ながらウルティモ・ドラゴンとタッグ結成。その後は蝶野のチームに合流し、ニュー・ジュラシックパワーズとしてスコット・ノートンともコンビを組む。短期間で、野人→海賊→ソルジャーへとギミックチェンジを繰り返した。 2005年からは、同じくレスリング出身であり犬猿の仲である永田、ケンドー・カシン、藤田和之と「チーム・ジャパン(TJ軍)」を結成。翌年の新日本のユークス子会社化に伴う猪木事務所との提携解消による藤田の離脱まで活動する。 2006年5月31日、ZERO1-MAXでのタッグマッチで大森隆男との試合後、大森の実力を認め握手を求めた。大森も中西を認め握手を交わしタッグチームを結成した。6月24日のディファ有明大会でNWAインターコンチネンタルタッグ選手権に挑戦。合体技「ワシントン条約」で勝利、初タッグ結成でいきなり王者となり、2戦目の7月17日札幌月寒大会ではIWGPタッグ王座(暫定王座)も奪取した。9月20日付けで、蝶野&天山組の持つ第48代IWGPタッグ王座は剥奪され、同日付けで正式に第49代IWGPタッグ王者となった。チーム名を「ワイルドチャイルド」とした。しかし、2008年1月1日、ZERO1-MAXの後楽園大会で大森とリング上で大喧嘩し、タッグを解消した。 2009年4月5日、大森のリング復帰を機会に大森と再共闘。2009年5月6日、後楽園ホールにおいてIWGPヘビー級王座に挑戦し、棚橋弘至を破り第51代王者となった。これまであと一歩のところで手が届かなかったベルトに、6度目の挑戦で悲願の初戴冠。実況席で解説の「鬼軍曹」山本小鉄も、人目を憚ることなく涙を流した。 2009年6月20日、初防衛戦で棚橋とのリマッチに敗れ、王座を明け渡した。 得意技 [編集] 小細工無しのパワーファイトが信条だが、最近ではその体躯から繰り出す迫力ある飛び技など、対戦相手やファンを「あっ」と驚かせる技も使うことが多い。 時事ネタを技名に用いて新たな技を使い始めることが多いが、短期間で使われなくなることも多い。 パワーファイターには珍しく、パワーボム系の技を一切使用しない。 フィニッシュ・ホールド [編集] アルゼンチン・バックブリーカー 中西の最も得意とする技で下記のように派生技、バリエーションに富む。また、タッグマッチの際に救出に入った相手パートナーに投げつけることもある。 派生技 アルゼンチン・ストマック・ブロック アルゼンチン・バックブリーカーの体勢から上部に放り投げ、自身の立てた膝に相手の腹を打ち据える。 アルゼンチン・バックフリップ アルゼンチン・バックブリーカーの体勢から後方に倒れ込む。 2段階式アルゼンチン・バックブリーカー アルゼンチン・バックブリーカーの体勢から上部に放り投げ、自身の立てた膝に相手の腰を打ち据える。 ヘラクレスカッター ウルティモ・ドラゴンとのタッグ時に開発された技。アルゼンチン・バックブリーカーの体勢から数回振り回して相手の後頭部を叩きつける。いわゆるスピニング・パンケーキと同型。 マナバウアー アルゼンチン・バックブリーカーから数回振り回してジャーマン・スープレックスを放つ。命名の由来は荒川静香により有名となった、フィギュアスケートの技「イナバウアー」。通常のジャーマン・スープレックスの5倍の威力とのこと。 ジャーマン・スープレックス・ホールド 開発者のカール・ゴッチに直伝されたというアングル(実際にはフロリダのゴッチ宅を訪問して少しアドバイスをもらっただけ)を経て、再度使い始めた。 高山善廣の同技が"エベレスト"ジャーマンと呼ばれていたことに対し、自ら"富士山"ジャーマンと命名したが、定着しなかった。高山は富士山ジャーマン命名の報をマスコミから聞くと「エベレストより低いじゃん」と一笑に付した。 大☆中西ジャーマン 中西が2008年1月4日に行われた東京ドーム大会でのアビス戦に向けて開発したジャーマンである。右手を天空にかざして技の発動を予告した後、相手の身体をロープに振って、その反動でジャーマン・スープレックスを決める。さらにグロッギーになった相手を通常のジャーマン・スープレックスでフォールする二段構えの技。 特大☆中西ジャーマン IWGPヘビー級王座に初載冠した際に放った技。リフトアップ・スラムの体勢からトップロープに強引に投げつけ、その跳ね返ってきた反動でジャーマン・スープレックス・ホールドを極める。試合中とっさに出た技で公式サイト内でも"ジャーマンスープレックスホールド"と表記されていたが(リングアナウンサーは大☆中西ジャーマンとコールしていた)、翌日の記者会見で自ら「特大☆中西ジャーマン」と命名。 打撃技 [編集] 逆水平チョップ 現在の日本マット界一の使い手の呼び声も高い。非常に説得力のある激しい音が会場に響き渡る。2009年10月12日の蝶野25周年両国大会では、小橋健太と激しいチョップ合戦を繰り広げた。 クロスチョップ 両手を、手のひらを下にした状態で、胸の前でバツの字に重ねて、相手ののどを突く。軽く地獄突きを繰り出した後に手をグルグル回し、タメを作ってこの技を繰り出すことが多い。 野人ハンマー 両手の指を組み、両腕を相手の胸元に叩きつける。中西流のダブルアックスハンドル、他の選手が使うのとの違いは一本足打法で放つ。 一本足野人ハンマー 野球日本代表が第1回WBC優勝後に開発。チームの監督である、王貞治の打撃フォームに似せて一本足で野人ハンマーを放つ。カウンターでも使用される。 野人ラリアット 後期の野人アピール後に放つことが多い。インパクトの瞬間に両膝をマットに着地させる膝付き式。ジャイアント・バーナードとの試合において、ロープに振った後、自らは違う方向に飛び、走る経路を途中で曲げて腕を叩き付けるホーミング式ラリアットを見せた。 マッケンロー 同名のテニス選手のフォームにヒントを得て開発した、膝裏への低空ラリアット。 スピアー 投げ技 [編集] カナディアン・バックブリーカー 現在ではほとんど使用していない。 ハイジャック・バックブリーカー 世界三大バックブリーカーと呼ばれる技全てをこの技の使用で網羅したことになるが、ほとんど使用されていない。 野人ブルドッギング・ヘッドロック ヘッドロックに捉えた後、助走を付けずに繰り出すのが中西流。 投げっ放しノーザンライトスープレックス 主に1990年代頃に使用していた。 ブレーンバスター・スラム ここからリングを対角線上に走ってジャンピング・ニードロップを仕掛けることが多い。 雪崩式ブレーンバスター トップロープ上から繰り出すこともあり、リングがバウンドするほどの威力と迫力を持つ。 水車落とし 相手へのカウンターで使用する。雪崩式も稀に使用。 飛び技 [編集] フライング・ボディシザーズ・ドロップ 勢いよく相手に飛びついて極める。 ミサイルキック これも正面飛び式で放つが、超ヘビー級の中西が放つミサイルキックの威力は高い。 ダイビング・ブレーンチョップ コーナー上でグルグルと腕を回してから放つ。 フロッグ式ヘッドバット 倒れている相手へ蛙飛びでヘッドバットを見舞う技。 ドロップキック 大抵は正面飛び式で放つ。リープ・フロッグで相手を飛び越えてからの一連の流れは「ゴリラのルチャ・リブレ」と形容された。 ジャンピング・ニーパット 一時期多用していたが、近年ではほとんど使用されなくなった。 ジャンピング・ニードロップ ダウンしている相手の頭部めがけて、助走をつけてからジャンピング・ニーを落とす。ブルーザー・ブロディのフォームを意識している。 絞め・関節技 [編集] アイアンクロー 二人同時に掴んだり、そのまま大外刈り(ブキャナンのアイアン・バスター と同型)で相手を倒すこともある。 マフラーホールド アルゼンチン・バックブリーカーの要領で相手の足を肩に担ぎ極める技。中西がサブミッション系の技を持っていなかったために開発された技。 マムシの生殺し 2007年のG1用に開発した技であり、キャメルクラッチから相手の首を強引に曲げる技。 ベアハッグ ネックハンギングツリー 荒鷲掴み 対中邑真輔戦において坂口征二と共に開発した通称「ボマイェ返し」。相手を持ち上げ豪快に叩きつけた後に腕ひしぎ逆十字固めを極める。しかし、実際の試合では、まず片手で相手の片足を掴み、もう片方の手で背中当たりを支えてから、強引に持ち上げて、そのまま高いところからフェイスバスターの要領で叩きつけるという、まさに荒技であった。 合体技 [編集] ワシントン条約 大森隆男の合体技。アックスボンバーとマッケンローを同時に繰り出す。2人の巨体から生み出されたこの技の破壊力は大きい。 京都岐定書 山本尚史の合体技。一本足野人ハンマーと水面蹴りを同時に繰り出す。技名はそれぞれの出身地から。 野人アピール [編集] 中西は一部の技に行く前に特定のアピールをすることがある。ただし、それはずっとしているわけでなく、しばらくすると新しいアピールをしだす。 両手の肘から先を振る:スピアーに行く前に両手の肘から先を振り回す。相手が寝転がっているときや片膝状態の時に行う。 両手をばたつかせジャンプ:アルゼンチン・バックブリーカーに行く前に、両手をばたつかせながらジャンプする。 片手を突き上げる:特定の技ということはない。右手を突き上げ、「ホーッ!」と叫ぶ。 地団駄を踏む:ラリアットに行く前に地団駄を踏み、右手を振り回しながら左手で相手を誘うように動かす。 試合後マイクアピールをする際にマイクの音源を確認するために数回マイクを叩いたら観客からそれに合わせて手拍子されたので、地団駄を踏みながらマイクをテンポ良く叩き出す(最初は観客の声援からのアドリブで行なったことだが、現在はマイクアピール前の定番となっている)。 また、G-EGGS時代における永田とのタッグ戦では、劣勢の中西の髪(当時はパーマをかけたセミロングヘアー)を永田がコーナー際でもじゃもじゃと掻き中西が復活するというパフォーマンス(通称・野人パワー注入)が見られた。 2010年のG1 CLIMAX XXのリーグ戦でストロングマンとの対決で片手を突き上げ、地団駄を踏んだ後、闘牛の暴れ牛が突進する前に前足で地面を数回ひっかくような動きを行った。この時、観客たちも初めて見る動きだったため、笑い声と拍手で会場が湧いた。 入場曲 [編集] Seize The Tactticz(現在使用中) WAR(黒い戦争)(エドウィン・スター)(2008年のG1タッグで吉江豊とのタッグチーム「ビックマウンテンズ」の時の入場曲) その他 [編集] 同時期にデビューした選手は「第三世代」(第一世代=藤波、長州力など、第二世代=闘魂三銃士、佐々木健介など)と呼ばれる。そのため、デビューの遅かった中西は健介と同年齢ながら第三世代扱いとなった。 大一番の前には対戦相手に「小細工はいらない」と言うことが多いが、中西本人は前述の通り新技開発を好む。 WCWでクロサワを名乗っていた頃、試合中のアクシデントで対戦相手のホーク・ウォリアーの腕を折ってしまい、しばらく試合を干されたことがある(もっとも、ホークはアクシデントと言うことで特に怒ってもいなかった上、『ホーク・ウォリアーの腕を折った男』という肩書きも出来たので、当時は結果的にはプラスになったと思われる)。 メガネをかけてインテリギミックを使おうとしたことがあるが、すぐやめてしまった。 体育科の教員免許を持っており上述の通り元公務員でもある。 元夫人は、元プロ野球選手・近藤昭仁(元横浜ベイスターズ初代監督→元千葉ロッテマリーンズ監督→元読売ジャイアンツヘッドコーチ)の次女で元女優の近藤典子。そのため、中西は近藤の元娘婿にあたる。 メジャー団体では数少ない関西弁で喋るレスラー(当時、メジャー団体では大相撲の慣例にならい方言禁止の風習があった)だったが、2002年にカール・ゴッチ宅を訪問してからはたどたどしい標準語を話すようになった(対照的に同じ第三世代の天山広吉は以前より関西弁を話す機会が増えた)。現在は元の関西弁に戻りつつあるようである(前田日明や金本浩二はそれ以前に関西弁で喋ってはいた)。 2003年3月に「中西政権が始まるぞ」と試合後コメントしたが、長い間始まる様子は見られていなかった。これに関しては当時新日本の社長だった藤波も「中西は会社がプッシュしてあげようとした時にいつも波に乗れない」と雑誌のインタビューに答えていた。しかし、2009年5月に王者に就き、初の政権が誕生した。 実家は京都では有名な茶農家である。 アマレスの技術はかなりのものであるはずが、同年代であり同じくアマレス経験のある永田の妬みにより、野獣キャラを押しつけられることとなり、得意のアマレスのうまさをアピールすることはできなくなってしまった。 『さんまのSUPERからくりTV』のコーナーの一つである「熱血プロレスラー中西学のお悩み相談バーベキュー相談亭」ではおぎやはぎ、駒田健吾アナとともに相談者の相談に乗っているが、結局は解決には至らず中西の珍発言に注目が集まっている。初めの主張とはまったく逆になっていることも少なくない。 上記の『さんまのSUPERからくりTV』の特番で、子供に勇気を与えるためと題して、705kgのキャンピングカーを50m引っ張るギネスブック記録に挑戦。持ち前の怪力をいかんなく発揮し、計測タイムはギネス記録を更新した(成功した際、明石家さんまに「これから兄さんと呼ばせてもらいます、これからは明石家学と名乗ります」と言い、さんまにチョット引かれていた)。 専修大学時代、寮で洋物のアダルトビデオを見つつ「オーイェー!!」などと叫びながら何やらやっていたところを後輩で寮の同室だった秋山準に何度か目撃されている。なお、お互いがプロになってから2009年現在で二度対戦しており、どちらも秋山が勝利している。 新日本プロレスのエンターテイメント系興行「WRESTLE LAND」ではそのキャラクターを余すところ無く発揮し、ファンに受け入れられている。後楽園ホールにて行われた「WRESTLE LAND 9th」では時間無制限1本勝負“権力の象徴”争奪3WAYラダーマッチ『棚橋弘至 vs TARU vs 中西学』に勝利し、ナカニシ・ランド開催の権利を得た。なお、権力の象徴とは、天井から吊るされた白の捻りハチマキ。 2007年、新垣結衣主演映画「恋するマドリ」にレスラー役として出演する。 2007年5月、「美味紳助」(テレビ朝日)で、健啖家と見られる4人の「ある一日のカロリー摂取量」を栄養士同伴で徹底調査するという企画に、フードレポーターの彦摩呂、女子シンクロナイズドスイミング日本代表の原田早穂、大食いタレントの三宅智子らと共に出演。「競争」ではなく、栄養士がいるという以外は極めて普通の日常状態の食事での測定であったが、当初「レスラーは意外と食わんよ」と言っていた島田紳助の予想を覆す約8,500kカロリーを摂取。しかし1位の三宅が約8,600kカロリーとなり、中西は僅差の2位であった。 2010年6月3日放送の「全種類。」での企画「大食いチャレンジ」にて「ステーキハウス・リベラ」で大学時代に挑戦して完食出来なかったチャレンジメニュー30分で500gステーキ&大盛りライスのセットを3セットをみごと完食し、約20年ぶりのリベンジを果たした。 趣味はデビュー時から、現在に至るまで「食べ歩き」。ちなみに、好物は毎年変わっている(週刊プロレス選手名鑑より)。 2007年7月、週刊プロレスの記事によると、身体から脂肪を省いた除脂肪量が99.5kgであり、いまだ筋肉を増やし続けている。 最近はワールドプロレスリングの実況で「ゴリラ」と呼ばれている。特に吉野アナには「霊長類最後のゴリラ」「進化を忘れた類人猿」「ゴリラはやっぱり空を飛べるんですっ!!」とゴリラネタを多数叫ばれている。ほかにもアルゼンチン・バックブリーカーを繰り出したとき、ミサイルキックを繰り出したときなどにお決まりのゴリラネタを叫ばれることが多い。 新日本プロレスの選手では、蝶野正洋に次いでメディア出演が多い。蝶野が教養番組等に出ているのに対し、中西は天然ボケキャラとして、出演のほとんどがバラエティ番組である。 現在は、横浜市鶴見区に在住。その縁から、鶴見区区制80周年記念事業に出席した。 テレビ朝日系『シルシルミシル』2010年4月7日放送分のコーナー「すぐ調べる課」に出演。クロマグロを手づかみで捕らえるという企画に挑戦するも、カナヅチであることが判明した。 獲得タイトル [編集] 新日本プロレス [編集] IWGPヘビー級王座(1回) IWGPタッグ王座(3回) 1999年G1 CLIMAX優勝 他団体 [編集] NWAインターコンチネンタルタッグ王座 レスリング [編集] 1989年 レスリング 全日本選手権 フリースタイル 100kg級 優勝 1990年 レスリング 全日本選手権 フリースタイル 100kg級 優勝 1991年 レスリング 全日本選手権 フリースタイル 100kg級 優勝 1992年 レスリング 全日本選手権 フリースタイル 100kg級 優勝 |
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永田 裕志(ながた ゆうじ、男性、1968年4月24日 - )は、日本のプロレスラー。千葉県東金市出身。千葉県立成東高校、日本体育大学卒業。
父は高校の校長兼野球部監督、妹(永田貴子)はネイルアーティストで米国で開催されるネイルトレードショーのWINBAで1999年入賞、2000年優勝の実績を持ち、兄の裕志、弟の克彦のコスチュームデザインも行う。実弟はシドニーオリンピックレスリング銀メダリストの永田克彦。新日本プロレスの試合でレスリングルールによる対戦もしている。ケンドー・カシンとはチームJAPANでユニットを組む等、特に仲がよい。カシンが大学院に合格した際には「東金デストロイヤー」なる覆面レスラーとして「祝福」に訪れた。 目次 [非表示] 1 来歴 1.1 デビュー以前 1.2 初タイトル獲得まで 1.3 G1 CLIMAX優勝 1.4 IWGPヘビー級王座連続防衛記録樹立 1.5 ヒール転向 1.6 コミカル路線 1.7 IWGPヘビー級王者への復帰 1.8 ZERO1世界ヘビー級王座載冠 1.9 青義軍、結成 1.10 TAJIRIとの抗争・和解 2 得意技 3 獲得タイトル 4 戦績 4.1 総合格闘技 5 入場テーマ曲 6 敬礼ポーズ 7 著書 8 その他 9 脚注 10 関連項目 11 外部リンク 来歴 [編集] デビュー以前 [編集] 1987年、千葉県立成東高等学校卒業後、日本体育大学に入学しレスリング部に所属。全日本学生選手権(1988年)および全日本大学グレコローマン選手権(1989年)で優勝を果たした。 1992年、全日本選手権優勝後、新日本プロレスに入門。同期には中西学、石澤常光(ケンドー・カシン)、大谷晋二郎らがいる。新日本に入門したのは馳浩の紹介。1992年9月14日山本広吉(現:天山広吉)戦でデビューを果たした。 初タイトル獲得まで [編集] 1995年、新日本プロレスとUWFインターナショナルとの対抗戦に出場。グレコローマンの下地を生かしたファイトで桜庭和志らと激闘を繰り広げた。 1997年から海外武者修行としてWCWに遠征。1998年に帰国。同年8月28日、神宮球場で中西と組んで、後藤達俊&小原道由を破り、自身初のタイトルとなるIWGPタッグ王座を獲得した。 G1 CLIMAX優勝 [編集] 2000年に中西、吉江豊、福田雅一と共にG-EGGSを結成、翌年まで活動。2000年3月2日にはZERO-ONE旗揚げ戦へスポット参戦した。 2001年、「G1 CLIMAX」決勝戦で武藤敬司を破り「G1」初優勝。同年10月8日には秋山準(プロレスリング・ノア)とタッグを組み武藤敬司&馳浩組に勝利した。また、この試合をきっかけに新日本内でのスターダムを駆け上がっていくことになる。この年の12月31日、総合格闘技初参戦となったINOKI BOM-BA-YE 2001でミルコ・クロコップと対戦。1R21秒左ハイキックを受け、レフェリーストップによるTKO負け。 2002年1月4日の新日本東京ドーム大会で、前年10月にタッグを組んだノア・秋山の持つGHCヘビー級王座に挑戦するも敗れた。 IWGPヘビー級王座連続防衛記録樹立 [編集] 2002年4月5日安田忠夫を破りIWGPヘビー級王座を奪取。以降、2003年5月2日に高山善廣に敗退するまで、橋本真也の持っていた防衛回数9を更新する10度の防衛を果たした。 2003年11月30日、ノア・北海道立総合体育センター(きたえーる)で棚橋と組んで、本田多聞&小橋建太を倒し、GHCタッグ王座奪取。12月31日、「INOKI BOM-BA-YE 2003」でエメリヤーエンコ・ヒョードルと対戦し、1分2秒左フックでTKO負け。 2004年6月12日、全日本・愛知県体育館で、ケンドー・カシンと組んで、小島聡&カズ・ハヤシを倒し、世界タッグ奪取。3大メジャーのタッグを制覇したのはベイダー、高山善廣に続き3人目。 ヒール転向 [編集] 2005年1月、マッチメイクに異を唱え、新日本離脱を示唆する発言をする。3月、フロントとの確執の末ヒール転向を宣言。BNJに合流せず、1人で戦うことになった。その後、中西学、ケンドー・カシン、藤田和之らとレスリング軍団「チームジャパン」を結成した。同年4月26日、前田日明がヒョードル戦の内容に苦言を呈したのに対し「ニールセン戦が悪いんじゃないが、ヒョードル戦とはジャンルが違うだろ。胸に手を当てて考えろ。」と発言。 2005年10月、長州力が現場監督として新日本に復帰した際、蝶野正洋を中心とした反長州派が不満をぶつけるなか、中立を宣言する。長州に好意的な選手が少な過ぎるため、棚橋弘至と共に長州とタッグを組まされ、半ばうやむやな形で中西とともに本隊に戻っている。12月11日、当時IWGPヘビー王者のブロック・レスナーと対戦し、敗北。 コミカル路線 [編集] 2006年に入り、スポーツ新聞の取材時にバレンタインチョコをかじる、徳島での試合を控えて阿波踊りで挑発する、誕生日ケーキを食べながら指をしゃぶるといったコミカルなパフォーマンスを行なっていた。4月にはワールドプロレスリングで試合が放送される際、白目をむいて鬼気迫る表情をする姿に「鬼神」「キラー永田」とテロップが入った。5月の第2回NEW JAPAN CUPでは、決勝でジャイアント・バーナードに敗れ準優勝。中西がZERO1-MAXの大森隆男とタッグを組み、IWGPタッグに挑戦する話が出た際に、王者チームに返上させて自身と山本のタッグや他のタッグを加えてトーナメントを開催することを提案した。 2006年5月、個人事務所「ナガタロック」を設立し、8月4日にリラクゼーションサロン「enishing」を開店した。6月には内外タイムスでコラム『永田裕志のセカンドバッグ』の連載を始める。9月、三冠王者になった鈴木みのるを見て「鈴木にベルトを獲られたんだから全日本のレスラーはB級レスラー」と発言したが、当の鈴木のブログで「B級と言っていいのは俺だけだ。永田はC級」とやりかえされる。 IWGPヘビー級王者への復帰 [編集] 2007年3月、「NEW JAPAN CUP 2007」で優勝。4月13日、大阪・大阪府立体育会館で行われたIWGPヘビー級選手権試合で王者棚橋弘至をバックドロップホールドで破り第46代IWGPヘビー級王者に返り咲いた。7月1日にはDRAGON GATEに参戦神戸ワールド記念ホールにてタケちゃんマンのコスチュームで入場しストーカー市川と対戦。9月9日、地元の千葉・東金アリーナで初の主催興業を行う。10月8日、両国国技館で行われたIWGPヘビー級選手権試合で棚橋弘至の挑戦を受け、31分5秒ハイフライフローから片エビ固めで敗北、棚橋がIWGPヘビー級王者に返り咲いた。 2008年1月4日、「IWGP3rdベルト」を賭けてカート・アングルと対戦するもアンクルロックにより敗退。 ZERO1世界ヘビー級王座載冠 [編集] 2008年2月17日、両国国技館で行われる予定の後藤洋央紀戦であったが、永田がウォーミングアップ中にめまいと左半身のしびれを訴え、リングドクターは脳梗塞の疑いがある判断。病院に搬送され試合は中止となった。精密検査の結果脳および頸椎に異常はなく、2008年2月27日会見を行い、病名は「高血圧から来る出血か、海綿状血管腫ではないか」と説明した。 5月からシリーズに復帰。10月13日、田中将斗を破り、ZERO1世界ヘビー級王座を奪取。2009年2月27日の大谷晋二郎に敗れるまで3度の防衛を果たした。 青義軍、結成 [編集] 2009年2月15日、昨年脳内出血による体調不良で緊急欠場し実現できなかった後藤洋央紀と両国国技館で1年越しの対決。最後はバックドロップ・ホールドで後藤を沈めた。4月5日には飯塚高史とチェーンデスマッチで対戦するがレフェリーストップで敗北。5月3日、飯塚とドッグカラー・チェーンデスマッチで再戦し飯塚をK.O.勝ちに収めた。 8月に行われたG1 CLIMAXでは毎試合、ご当地の球団のユニフォームで入場した。また、最終日にはイチローが着ていたワールド・ベースボール・クラシックのユニフォームを着て、会場を盛り上げた。後に本人のブログでは本物だったと書き記されていた[1]。 同年9月、平澤光秀、井上亘、スーパー・ストロング・マシンとともに青義軍を結成。12月5日には中邑真輔の持つIWGPヘビー級王座に挑戦するもボマイェで敗北を喫した。 TAJIRIとの抗争・和解 [編集] 2010年1月4日の東京ドームで行われたレッスルキングダムⅣで元横綱・曙と「ブルーマウテンズ」としてタッグを組み、TAJIRI・田中将斗組と対戦するも、曙もろともTAJIRIのグリーンミストを受け、最後は永田はTAJIRIのバズソーキックでピンフォール負けを喫してしまい、戦前の公約どおり地元の東金市で自ら銅像になる罰ゲームを受けることになった。 翌1月30日に後楽園ホールでは高橋裕二郎・内藤哲也のコンビ「NO LIMIT」とタッグを組み、TAJIRIとバットインテンションズのジャイアント・バーナード・カール・アンダーソン組による6人タッグマッチを行うも、裕次郎のチャンピオンベルトによる攻撃に激怒したことで試合中にチーム内で亀裂が発生、いがみ合いの末にNO LIMITは試合放棄し、直後にTAJIRIからグリーンミストを受けて反則勝ちになる。 翌日31日のディファ有明で青義軍の井上亘と共にTAJIRI・飯塚高史と対決、TAJIRIのグリーンミストに対抗して毒霧「ブルーミスト」をTAJIRIに使い、反則負けになるも屈辱を晴らす。 しかし、その後はTAJIRIのいないチームとの対決でも惜しみなくブルーミストを使うようになり、ファンの間からも正義を貫き通す姿のあり方を問われるようになってしまう。 そして、2月14日にブルーミストを封印し、自らのストロングスタイルでTAJIRIとシングルマッチで対決、序盤と終盤で2度TAJIRIにグリーンミストを受けるも目の位置を変えることでこれを耐え抜き、腕折り以外で初めて白眼を向き仁王立ちをする「緑の大魔神」に変身。強烈な膝蹴りと投げっぱなしのバックドロップをお見舞いし、腕折りでギブアップ勝ちするも、セコンドの制止が入るまでの間、白目を向きながらゴングとレフェリーの制止を無視して腕折りを仕掛け続けていた。 その後はTAJIRIとの戦いが無く、8月8日のG1 CLIMAX XXのスペシャルタッグマッチで矢野通の椅子攻撃で右膝を負傷していたTAJIRIとタッグを組み、CHAOSの飯塚高史とCHAOS入りしたNO LIMIT高橋裕二郎のタッグと対戦。始めは2ヶ月近くの抗争を根に持っていたため、TAJIRIに対して冷たい態度を示していたが試合中の飯塚と裕次郎による執拗な右膝攻撃を受けているTAJIRIを見かねて手をさしのばすようになる。 結局、試合はTAJIRIが飯塚に捨て身のグリーンミスト攻撃で反則負けするも、TAJIRIは飯塚からアイアンフィンガーフロムヘルを奪い、序盤での猛攻撃に対し一矢報いようとするも裕次郎に妨害されてしまうも、直後に永田が裕次郎をブルーミストで撃沈させたことでグリーンミストとブルーミストの奇跡の競演を果たし、飯塚を羽交い絞めにしてTAJIRIのアイアンフィンガーフロムヘルによる飯塚への地獄突きに成功する。その後、2人で敬礼ポーズをとり、固く握手をして和解する。 得意技 [編集] バックドロップ・ホールド 永田の若手時代からの代表的なフィニッシュ・ホールド。投げられる相手は高角度でマットに叩きつけられる。ホールドにいく際には自分の体を捻って覆いかぶさるような形になる場合が多い、若手時代から使っており当時はジャンボ鶴田に顔つきが似てると言われ「鶴田二世」と呼ばれていた。 エクスプロイダー 秋山準の代表的な必殺技で、秋山とライバル関係を意識したあたりから使い始める。公開練習において秋山より直接伝授された。お返しに永田はナガタロックIIを秋山に贈った。 リストクラッチ式エクスプロイダー 相手の手首を持ってのエクスプロイダー。 ノーザンライト・スープレックス・ホールド 師匠馳の影響を受けてか昔から時々使用している。 ファイヤーマンズキャリーホールド 稀に使用する。 各種キック ローキック、ミドルキック、ハイキックそれぞれを使う。ビッグブーツも得意技。軸足を踏み切ることで放つビッグブーツ(ロケットキック)をキックボクシングの伊原道場でトレーニング中に開発した、現在もキックボクシングジムでのトレーニングは欠かしてない。 腕固め うつ伏せ状態の相手の腕を取り、またがるようにしてそのまま相手の上に乗っかるような体勢で腕を極める。腕ひしぎ十字固めと異なり、自分が立ったままの状態で極める。鈴木みのる戦で顔面をプルプルさせながら白目を向く表情は「キラー永田」と呼ばれ、以後定番となっている。 ナガタ・ロックシリーズ ナガタ・ロック 変形足4の字固めと膝十字固めの複合技。体勢に入る前に敬礼のポーズをとるのが特徴。安生洋二のグランドクロス200とほぼ同じ。 ナガタ・ロックII 若手時代からの得意技。グラウンド式の腕極め顔面締め。 クロスフェイスとは若干形が異なり相手の首を締め上げる方向に曲げ、前腕部から腕全体で極める。 ナガタ・ロックIII ナガタ・ロックIIの体勢から移行し、コブラツイストのような形で相手の上半身を締める。当初永田はミルコ戦での初公開を予告していた。だが実際には対西村修戦で初公開された。これは極度の軟体であり通常の関節技が効かないとされていた西村に対しての対抗策であった。 リバースナガタロックIII ナガタ・ロックIIIの体勢からさらに移行し、横方向に回転して相手の両腕を極めたままフォールの体勢にする技。ギブアップを奪う技ではなく、フォール技の一種。 ナガタ・ロックIV 2006年5月3日福岡国際センターVS真壁戦で初公開。ナガタ・ロックIIとほぼ同型だが、腕を両足で挟んで極めたIIとは異なり、足を使っての脇固めのように片腕を極めてのクロスフェイスである。 サンダーデスシリーズ ナガタ・ロックシリーズと並ぶ永田の代名詞。東京スポーツで「おどろおどろしいネーミングが殺伐とした世相とマッチし、一部マニアから人気を得ている技」と報道された。 サンダーデスドライバー 旋回式垂直落下ブレーンバスター。 スペシャルローリングサンダーデスドライバー (SRTDD) ブレーンバスター、垂直落下式ブレーンバスター、サンダーデスドライバーを続けて放つとこの名称になる。対カート・アングルに開発された。 サンダーデスキック 本人曰く、得意のキックに鋭さと力強さを加えた技。2006年のNEW JAPAN CUPに向けて開発された技だが、試合中に繰り出されたことは未だに無い。 ショルダーアームブリーカー 相手の腕をひねり、相手に背を向けるように立ち自身の肩に取った相手の腕の肘の部分を叩き付ける技。永田が相手の腕を折りにかかるときに使用される頻度の高い技。通称「腕殺し」。実際には相手の肘の内側を自分の肩にぶつけるようにしていて、相手の腕が折れない程度にダメージを与えるように考慮している。 マジックスクリュー 相手の頭を脇に挟んで持ち上げ、足をトップロープにかけ、そのまま首に対して自分の体を旋回させる(首へのドラゴンスクリュー)。 全日本・武藤の「ネックスクリュー」とは若干異なり、相手の腕を肩に掛けた状態で仕掛ける。元祖は永田裕志である。 ドライブスクリュー スクリューシリーズその2。ブレーンバスターの体勢で持ち上げてきりもみ式に相手を脳天から落とす技。 パワースープレックス カウンター式のフロント・スープレックス。 フェース・バスター フロント・スリーパーの体勢で捕らえ、顔面からマットに叩きつける荒技。ナガタロックIIの繋ぎ技として使用する。ゲーム等では「ナガタバスター」「サドン・インパクト」という技名になっている。 延髄斬り レフトジャブパンチ→ライトフック 左手でジャブを見舞い最期に右手を大きく回してフックを放つ。 シャイニング・ウィザード ここ一番では、両腕を大きく動かしアピールして放つ。 ムエタイ式エルボー 通常のエルボーと違い、額に向けて高速で何発も放つ。 タイナー コーナーにもたれかかっている相手の顔面に駆け上がって膝をぶち込む技。相手の蹴り足をキャッチしてそのままコーナーに押し込んで使用するパターンもある。 ブルーミスト 永田がTAJIRIとの抗争中に使用した青色の毒霧。しかし初公開の時は毒素が強すぎて(青い)色素まで死んでしまったために無色透明になってしまった。 獲得タイトル [編集] 新日本プロレス IWGPヘビー級王座:2回(第31代、46代) 第31代王者に就いた際には当時最多防衛記録所持者橋本真也の9回を上回る10度の防衛に成功し、2010年11月現在誰にも破られたことはない。 IWGPタッグ王座(第39代、56代) パートナーは中西学、井上亘 全日本プロレス 世界タッグ王座(第50代) パートナーはケンドー・カシン。 プロレスリング・ノア GHCタッグ王座(第7代) パートナーは棚橋弘至。 ZERO1-MAX ZERO1 世界ヘビー級王座(第2代) |
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