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【2025/06/07 13:49 】 |
大刀光電右エ門
大刀光 電右エ門(たちひかり でんえもん、1963年9月12日 - )は、千葉県千葉市出身で友綱部屋所属の元大相撲力士、現在はプロレスラーで、リングネームは大刀光(たちひかり)。本名は河原修(かわはら おさむ)。大相撲時代は身長195cm、体重148kg、プロレスラー時代は身長195cm、体重135kg。得意手は右四つ、上手投げ、波離間投げ。最高位は西前頭15枚目(1993年7月場所)。
目次 [非表示]
1 来歴
2 エピソード
3 主な成績
3.1 大相撲
3.2 総合格闘技
4 四股名改名歴
5 関連項目
6 外部リンク
来歴 [編集]

東京・安田学園高校では寺尾の1年後輩で相撲を取っていたが、寺尾が2年生の時に中退したこともあり自身も1年で中退した。食肉会社で働いていたときに大相撲を勧められて、1982年1月場所で初土俵を踏む。師匠から期待されて、大正時代に友綱部屋から初土俵を踏んだ大関力士である「太刀光」の四股名を与えられた(のちに大刀光と改名)。1988年7月場所で新十両に昇進し、十両で一進一退を続けたのち、1992年7月場所新入幕。長身を生かしての右からの上手投げに威力があり、大刀光スペシャルと称された。またいかつい容貌に長い揉み上げが特徴だった。しかし、立合いに厳しさがなく、また肩越しに上手をとって相手を振り回したり、土俵際のはりま投げなど逆襲に頼る相撲は幕内では通用せず、幕内在位は1場所で終わった。1994年1月場所限りで廃業した。
その後、WARにて、顔にペイントを施し『大和』と名乗り、相撲軍団のメンバーとして活動した後、正式にプロレス入りし、WARのみならず、大日本プロレス、SPWFプロレスなどのリングで闘った。さらに、恵まれた巨体に加えて大相撲出身特有の足腰の強さと突進力を武器に2000年のPRIDEグランプリ参戦を皮切りに、DEEPなど総合格闘技にもチャレンジしている。また一時期千葉市内でスナックを経営していた。
2008年3月場所より実子の河原正実が阿武松部屋から本名で相撲をとっている。
エピソード [編集]

高校の1年先輩に寺尾がいる。高校時代によく稽古を付けてもらったが、新入幕の場所に寺尾と対戦し勝利を収め、「恩返し」を果たした。
新十両の時、「目標とする力士は?」との質問に「陣岳関」と回答した。二人は体格は似ているものの相撲ぶりはあまり似ていなくて、回答の真意は謎である。このことがやくみつるの漫画のネタとなった。
同じ角界出身の高木功(嵐)とは『チームコンボイ』の名でタッグを組んで試合をする機会が多かった。殆どの試合ではそれぞれ『嵐』『大刀光修』名義で試合をしたが、デスマッチをメインに行う団体(大日本プロレスなど)では本名の『高木功』『河原修』名義で試合を行った。
主な成績 [編集]

大相撲 [編集]
幕内成績:7勝8敗(1場所)
十両成績:134勝151敗(19場所)
生涯成績:340勝316敗7休1分(73場所)
各段優勝:序ノ口1回(1982年3月場所)
総合格闘技 [編集]
総合格闘技 戦績
4 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合
0 勝 0 0 0 0 0 0
4 敗 3 1 0 0
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
× エル・カネック 1R 4:55 TKO(パウンド) DEEP2001 3rd IMPACT X'mas in DIFFER ARIAKE 2001年12月23日
× 謙吾 1R 0:22 KO(パンチ連打) DEEP2001 2001年1月8日
× ユルコ・ドミトロ 1R 2:50 TKO 掣圏道 SWAアルティメットボクシング 2000年10月29日
× ゲーリー・グッドリッジ 1R 0:51 前腕チョーク PRIDE GRANDPRIX 2000 開幕戦【1回戦】 2000年1月30日
四股名改名歴 [編集]

河原 修(かわはら おさむ、1982年1月場所 - 1984年11月場所)
太刀光 電右エ門(たちひかり でんえもん、1985年1月場所 - 1992年7月場所)
大刀光 電右エ門(読み同じ、1992年9月場所 - 1994年1月場所)
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【2010/12/31 00:56 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
高山善廣
高山 善廣(たかやま よしひろ、男性、1966年9月19日 - )は、日本のプロレスラー。東京都墨田区出身。東海大学付属相模高等学校、東海大学文学部文明学科卒業。高山堂(個人事務所)所属。ダイナミックなレスラーであり、数少ない現役「長身日本人レスラー」の一人。
試合に対する分析力と笑いの要素も含めた会話の能力も優れているため、プロレスリング・ノア中継のレギュラー解説者であり、またワールドプロレスリングなどでもゲスト解説を務めることがある。また、2006年からは、UFCを中継する日テレG+の番組(現在は放送終了)にも解説者として出演していた。
学生時代にはラグビーをしていた。また、湘南でライフガードのアルバイトをしていた、元ライフセイバーでもある。
目次 [非表示]
1 来歴
1.1 Uインター時代
1.2 全日本時代
1.3 ノア・フリー時代
2 人物
3 交友関係
4 脳梗塞との闘い
5 得意技
6 戦績
6.1 総合格闘技
7 タイトル歴
7.1 プロレスリング・ノア
7.2 全日本プロレス
7.3 新日本プロレス
7.4 WAR
7.5 ZERO1-MAX
7.6 天龍PROJECT
7.7 プロレス大賞
8 出演
8.1 テレビ
8.2 OVA
8.3 映画
9 入場テーマ曲
10 出典
11 関連項目
12 外部リンク
来歴 [編集]

Uインター時代 [編集]
大学卒業後、フジサンケイグループでサラリーマン生活を送っていたが、プロレスラーの夢を捨てられずUWFインターナショナルに入門。練習の厳しさに耐えかねて一旦は夜逃げするも、ライフガードのアルバイト中にUインターの先輩・宮戸優光と再会し、再入門を果たす(なお、第2次UWFの入団試験に合格した経験も持っている)。1992年6月、金原弘光戦でデビュー。
1995年10月9日に始まったUインターvs新日本プロレスの対抗戦の流れから、安生洋二、山本健一(現:山本喧一)と「ゴールデン・カップス」を結成。
8月17日、Uインター神宮球場大会で行われたバーリトゥード戦でキモと対戦し、チョークスリーパーで一本負け[1]。
9月11日、Uインター神宮球場大会で全日本プロレスの川田利明との対戦が実現するも、ジャンピング・ハイキックで敗れる。
12月のUインター解散後、Uインター関係者が立ち上げた受け皿団体・キングダムに移籍する。
全日本時代 [編集]
1997年3月、前年に敗れた川田利明を追い、フリーランスとして全日本プロレスに参戦。ゲーリー・オブライトと組んで、メインイベントで川田、田上明組の世界タッグに挑戦するも敗れる。
1999年5月、後追いで参戦していた垣原賢人と共に、全日本プロレスの正式所属選手となる。大森隆男・浅子覚と「ノーフィアー(NO FEAR)」結成(当初は大森・高山のみで、浅子は後に合流)。史上初となる世界タッグとアジアタッグの同時制覇を成し遂げる。
ノア・フリー時代 [編集]
2000年、三沢光晴らと共に全日本プロレスを脱退し、プロレスリング・ノア旗揚げに参加。
2001年、PRIDE参戦を機に再びフリーランスとなる[2]。以後、ノアを中心に、新日本プロレスやその他の様々な団体、PRIDEなど総合格闘技にも参戦。
6月23日、PRIDE.21でドン・フライとの顔が変形するほどの凄惨な殴り合いにより、格闘技ファンにも知られるようになった。ちなみにこの後ギャラが大幅にアップしたという。
同じ頃、浅子の怪我による引退や大森との喧嘩別れもあって、NO FEARを解散。以後、同ユニットの合言葉だった「いくぞ、ノーフィアー!!」を、解散後も高山が使用したため彼の代名詞となる。
2002年9月7日、小川良成を破りGHCヘビー級王座を奪取。高山自身初のシングルタイトルとなった。
新日本プロレスにおいて、2003年にIWGPヘビー級王座(永年空位だったNWFの二冠を制覇した時期もしばらくあった)を獲得。その後鈴木みのると「外敵タッグ」を結成。鈴木とのタッグチームは2008年の健介オフィスでの秋山準・佐々木健介組に敗れるまで無敗であった(試合は健介が高山をピンフォール)。
2004年2月1日、北海道立総合体育センターで鈴木と組み、天山広吉・西村修組からIWGPタッグ王座を奪取する。3大メジャー団体のタッグ王座を制覇したのは、この時点でベイダーに続き2人目。
6月、ハッスル・ハウスにて高田総統から「恐れを知らないモンスター」として紹介され、会場に姿を見せた。この興行の前のハッスル3では「高田延彦の遺伝子を継ぐ男」として紹介されている。
8月8日、G1 CLIMAXリーグ戦・大阪府立体育会館での佐々木健介戦後、脳梗塞(当初の発表は脳血栓)で倒れ長期戦線離脱となった。
リハビリやタレント活動を経て、2006年7月16日、ノア日本武道館大会で復帰。佐々木健介と組んで、三沢光晴・秋山準組と対戦し、秋山のリストクラッチ式エクスプロイダーに敗れた。10月8日の新日本両国大会では鈴木みのるとタッグを組み、永田裕志・山本尚史組と対戦。
2006年12月26日、ハッスル・ハウスに、鈴木みのると組み電撃参戦。12月27日ZERO1-MAXに登場し、かつての盟友・大森を襲撃。
2007年12月2日、ノア日本武道館大会で小橋建太と初タッグを結成。なお、この日は腎臓癌摘出手術によって長期欠場していた小橋の復帰初戦であり、自身の復帰戦で予定されていたカードであった。
2008年10月、プロレス・エキスポ初日に参戦。因縁のドン・フライと初タッグを結成した。なお翌日はプロレスリング・ノア武道館大会に参戦。
2009年3月14日、全日本プロレス両国国技館大会でグレート・ムタから三冠ヘビー級王座を奪取し、史上初めて日本国内3大メジャー団体(新日本・全日本・ノア)のヘビー級シングル&タッグタイトルを奪取した。
人物 [編集]

1997年3月、全日に初参戦。前年に敗れた川田を追い、オブライトと組み、川田、田上の世界タッグに挑戦。当初は非常に痩せた身体で、キック以外はあまり見所のない選手のように評されていたが、ジャイアント馬場は「こいつは磨けば光る」と目を付けた。当時の全日本で、初参戦でいきなりタイトルマッチが組まれたのは異例中の異例である。またトップロープをまたいで入場するようになったのは、デビュー当時は普通にロープをくぐってリングインしていたが、新日本プロレス初参戦時にロープの高さがUWFのものよりも低かったため、跨げるのではと思い跨いでみたところ、本当に跨げたためそれ以降の定番になったと本人の著書の中で述べている。その後、浅子覚、大森隆男とのユニット・NO FEARでの活躍あたりから体重も増え、技術の向上もあってプロレス界で頭角を現すようになる。
体重の増加は、持病である重い気管支喘息の薬の副作用、もしくは下腹部の古傷の保護のためとも言われる。元々重い喘息持ちであり、控え室では吸入を欠かさないなど、あまり身体が強いほうではない。2006年1月14日、日本製薬工業協会の提供番組「希望へのメッセージ・くすり物語」(日本テレビ)に、脳梗塞で欠場中の高山が出演。番組進行役の吉田栄作と公園でのインタビューに応じていた。内容としては持病の喘息についてのことで、脳梗塞の点には触れていない。
1996年から「スー族の血を引くクォーター」と称していたが[3]、これは安生洋二のアイデアによるギミックであり、事実ではない[4]。異名のアパッチタワーはこのギミックに由来する[5]。PRIDEに参戦する頃にネタであることが明かされた。
2006年のNHK大河ドラマ「功名が辻」に蜂須賀小六役で出演していたが、本人は自身の日記で「あまりの大根役者ぶりに自分でもびっくりしている」とコメントしている。番宣で「スタジオパークからこんにちは」にも出演した。NHKでは珍しくプロレスの映像が放送された(永田からIWGPを取った試合)。
仮面のメイドガイとのタイアップでメイドのコスプレも行ったことがある。キャッチコピーは「こんなメイドに萌えてみろ」。
プロレス界の二大巨頭、馬場・猪木が認めるレスラーである。馬場は当時他団体の選手である高山に「昔だったら海外に(当時の全日は選手を海外修行に出させていなかったため)参戦させてやりたかった」とか色々とアドバイスをしたり、食事に連れてったりと、高山を一レスラー・人間として非常に気に入っていた。猪木は新日本の選手を差し置いて「プロレス界で一番もっともらしいプロレスラー」と評価している、気に入った者しか連れて行かない「イノキアイランド」にも招待している。
公式サイトの日記にて、「大学を卒業して田宮模型に入社していたら今の自分はなかっただろう」と語るほどのプラモデル好き。玩具・フィギュアなどの収集が趣味で、公式サイトにはコレクションしている玩具の写真が掲載されている。最近、田宮最初のラジコンカーをYahoo!オークションで、「妻に言えないような値段で」競り落とした。[6]
聖闘士星矢の声優を演じたことがある。この時、高山は自身が乙女座ということもあり「乙女座のシャカ」のTシャツを着てスタジオに現れた。
団体の枠を越えた活躍ぶりから週刊ゴングの金澤克彦が「プロレス界の帝王」と名付け、それがキャッチフレーズとなる。
2007年1月31日、第1子(男児)が誕生した。
満足のいく試合が出来なかった日など、ファンに冷たい一面を持ち合わせているが、普段は公式ホームページ等でファンとの交流を図っている。
古いアメ車に乗っている。
マシン軍団のメンバーである、ダイナミック・マシン2号の正体と言われているが詳細は不明。
交友関係 [編集]

幕内力士の北勝力を「英樹」と呼び、弟分のように可愛がっている。また、同年代であるノア所属の杉浦貴と大変仲が良く、杉浦を「スギ」「スギ様」「おすぎ」などと呼んでいる。それぞれライバルに「試合以外での杉浦貴」「夜の高山善廣」を挙げている。
強面で、基本的にはヒールな立ち位置であるが、たとえ自分より年下でも、大森、垣原賢人、鈴木みのるなどの先輩選手には「さん」付けで呼ぶ常識人でもある。ただし、大森との喧嘩別れ以後は「あんな奴」とか「隆男ちゃん」と言ったこともある。また、三沢光晴は「社長(もしくはエロ社長)」、田上明は「田上のおっさん」、武藤敬司は「タコ社長」と呼ぶ。同年齢でキャリアは上の小橋建太は「小橋建太」、年下でキャリアは同じ位の秋山準は「準」、永田裕志は「裕志」、などと呼び、さん付けをしないが、「〜選手」と敬称を付けることが多い。また、最近は鈴木に対して「みのるちゃん」と呼んでおり、同年齢の佐々木健介にも40歳になった記念として「健ちゃん」と呼ぶようになった。健介はその後咄嗟に高山を「高ちゃん」と呼び、鈴木からは、ノア中継放送内や自身のブログなどで「金髪の大男」と呼ばれることが多い。
2004年9月26日に「ウチくる!?」にゲスト出演。その際に馬場・猪木(猪木はVTR出演)とのエピソード・湘南での思い出を披露し、ライフセイバー時代の友人、宮戸、後輩の桜庭和志らが友情出演した。2006年12月、「ウチくる!?」に安藤和津がゲスト出演した回に、友人として登場。
脳梗塞との闘い [編集]

2004年8月8日、大阪府立体育会館で行われた新日本G1 CLIMAXリーグ戦・佐々木健介戦後のバックステージで、突然右手の自由が利かなくなり、リング上で受け取った勝利者賞の目録を落とした。その後、控え室に戻ろうとしたが、今度はドアノブを扱えず、立ち眩みで倒れてしまう。周りにいたレスラーや関係者が異変に気付き、救急車を呼び、高山は富永病院へ搬送された。富永病院は大阪府立体育会館のすぐ近くにあり、脳神経治療では国内トップレベルで知られていた。病院に運ばれた高山に、即カテーテル手術が施された。
発症してから手術までの時間が3時間以内であれば、後々の後遺症も最小限で済む可能性が高いと言われている脳梗塞であるが、病院まで救急車で10分以内の距離で発症し、2時間で全ての手術を終えることができたため、主治医は「高山さんはかなり強運の持ち主だった」と語っている(外部リンク参照)。
本人は手術後、喋ることが出来たり、動かなかった手足が動くようになっていたことで、「これはすぐに復帰出来る」と思っていたそうだが、しばらく経つと、思ったように言葉が出なかったり、今まで出来ていた動きが出来なくなっていることに気付いたことから、不安視するようになった(本人は「思考回路すら麻痺していた」と話している)。以後、大好きだったコーヒーをやめて、水を一日6リットル飲むように心がけたり、肉を食べることをやめて魚と野菜中心の食生活にしたりと、日常生活を改善。リハビリも開始した。また、飲酒も止めた(煙草はもともと吸わないとのこと)。
医師からは「自分で体力が戻ったと思ったら、いつでも復帰していいが、その前に診断を受けるように」と言われていた。本人は復帰に向けてトレーニングを続け、2005年の末には、壊死していて以前のような動きができなくなったものに対しては、他の器官で欠場前と同じような動きをできるようにするトレーニングや、少しずつ頭部に負荷をかけるトレーニングをはじめていることを明かした。また、欠場中は先述のゲスト解説に加えて、ラジオ番組やテレビドラマにゲスト出演するなど、タレント活動に専念していた。
復帰までの間、高山は宮戸優光のジム「U.W.F.スネークピットジャパン」にて復帰に向けたトレーニングを積んでいたほか、解説者としてノアの会場を訪れた際も、試合前に受け身などの練習をしていた。2006年3月5日のノア武道館大会に解説者として来場した際、試合前の選手練習中に、病気離脱後初めて後ろ受け身の練習を行った。
約2年間の休養後、2006年7月16日のノア武道館大会にて復帰することが決定し、佐々木健介とタッグを組んで、秋山準・三沢光晴組との対戦という最高のカードが用意された。プロスポーツ選手で脳梗塞から復帰した前例はないとされている(当初は高山のパートナーは小橋であったが、腎腫瘍摘出手術による欠場のため、変更になった)。試合は半分以上高山が捕まる展開となり、その時点で持っている力を出し尽くし、欠場中の小橋へのエールをこめてマシンガンチョップを放ったりしたが、結局三沢のエメラルド・フロウジョンと秋山のリストクラッチ式エクスプロイダーを連続して食らって敗れた。この日は高山の復帰を待望していたかのように、日本武道館には超満員となった。
試合では、散々三沢のエルボーや秋山のジャンピング・ニー・バットを食らい続けたが、10分程控え室で休んだ後元気そうにプレスルームに現れ、健介と肩を組んで元気に記者会見に応じていた。
この復帰戦直前に、元々タッグパートナーとして共闘することになっていた小橋建太が腎臓癌により離脱・手術を行うことになり、復帰戦についてのコメントをノア中継内求められた際、ファンと小橋に向けて「みんながジメジメしたら小橋建太が戦えなくなるから、明るく希望を持って、彼の帰りを待とう。小橋建太のために戦うとか、そういう大それたことは言えないけど、俺は全力で戦って、武道館後もリングに生き残るから、小橋建太、必ず戻って来い」という暖かいメッセージを送った。また別のインタビューでは「俺は脳梗塞を克服して戻ってきた。ここでお前が癌に負けるようなことがあれば、プロレスラーとしてお前は俺に負けたことになるぞ。それが嫌だったら、何年かかっても絶対に戻って来い」と高山ならではの励ましのコメントを送った。
2007年12月2日の小橋建太の腎臓癌からの復帰戦前には、タッグパートナーを務めることに関して「彼の(病気の)ことは俺が一番分かるつもりだから」と話している。
得意技 [編集]

UWFの流れを汲むUインターからレスラー人生を出発させた彼だが、細かいグラウンドテクニックは余り使用しない。元々から細かいテクニックよりもハードキックで試合を組み立てるタイプであったが、全日本プロレス登場当初は腕ひしぎ逆十字固め等の極め技も使っていた。現在は恵まれた体躯を活かした豪快な打撃で小細工なしのハードヒットなプロレスを展開している。
エベレスト・ジャーマン・スープレックス・ホールド
彼の繰り出すジャーマン・スープレックスは、その角度の高さから、世界一の巨山であるエベレストにたとえて、こう称される。
ダルマ式ジャーマン・スープレックス・ホールド
通常のジャーマン・スープレックスとは異なり、相手の両腕を一緒に抱え込んで投げる(類似技にクロスアーム式があるが、これは相手の両手を交差してクラッチする。一方ダルマ式は相手の腕を体側に揃えた状態で、自分の両腕で相手の腕ごと胴を抱え込む。)。腕がロックされているので受身が取れず、首のみでマットに叩きつけられる危険な技。2000年、小橋の持つ三冠ヘビー級に挑戦するために身に付けた。高山曰く「人を人とも思わない技」。
高角度バックドロップ
2008年8月30日両国国技館大会の諏訪魔戦で使用した危険技。通常のバックドロップよりも脳天から落ちる危険角度で落とす。大一番の試合で使う。
ドラゴン・スープレックス
大一番での試合終盤や、エベレスト・ジャーマン・スープレックス・ホールドが返されたときに使用する。190cm以上の身長を持つため、相手は、2メートルほどの落差から真っ逆さまに落ちる。彼の場合は、投げっぱなしを使う。
ニーリフト
膝を使って胴体を蹴り上げる技。ダッシュしてから繰り出すランニング・ニーリフトは強力で、ヘビー級の相手でもその威力で体が浮き上がる。この他にも、相手の胴を掴んだ状態で、腹部に思いっきりニーリフトを繰り出すタイプなど、使用法の応用範囲は広い。総合格闘技ではこのニーリフトを主要打撃技として使用する。
ミドルキック
形態はミドルキックだが、長身のため打撃された相手にとってはハイキックと同じ打撃ポジションとなる。
サッカーボールキック
リング中央・花道上等の助走が大きく取れる場所に相手をしりもち状態にしておいて、走りこんで背中に思いっきりキックを入れる。選手権試合等では背中ではなく正面から蹴り上げることもあり、第1回GHCヘビー級王者決定トーナメント・決勝にて三沢光晴にこれを放ち、顎の下に数針縫う裂傷を負わせた。
ギロチン・ドロップ
ジャンプしてマットに倒れている相手ののど下に大腿部裏を叩き落す。全日本移籍初期に純プロレスにシフトチェンジを図るため多用し、そのフォームがブルーザー・ブロディのものを彷彿とさせたため、当時「和製ブルーザー・ブロディ」の異名が付けられた。NO FEARとしての初めての大金星となった川田利明&田上明組には、この技を決め技として使用した。その後、荒々しいファイトを全面に押し出すスタイルとなってからは使用頻度は徐々に減っていった。
ビッグ・ブーツ
ブルーザー・ブロディのキングコング・キックの様に助走をつけて放つことが多い。ギロチン・ドロップ同様、前述の高山のニックネーム「和製ブルーザー・ブロディ」の由来のひとつである。
裏片羽絞め
全日本移籍後、最も使用頻度が高かったサブミッション。通常は、仰向けの相手に掛ける片羽絞めを、高山はうつ伏せの相手に繰り出す。若手や中堅選手相手では、この技を極め技にすることも多かった。ゲーリー・オブライトにこの技で勝利したこともある。最近はあまり使用していない。
ドロップキック
 全日本移籍後、試合中よく繰り出していた。長身の体で、打点・威力ともに見ごたえのある技のキレを誇っていた。
罵詈雑言
プロレス技でないが、自著に記載されているプロフィールに「本当の得意技 罵詈雑言」と書かれている。試合前後のマイクパフォーマンスではキレのあるコメントをする。
戦績 [編集]

総合格闘技 [編集]
総合格闘技 戦績
5 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合
0 勝 0 0 0 0 0 0
5 敗 2 3 0 0
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
× ボブ・サップ 1R 2:16 腕ひしぎ十字固め INOKI BOM-BA-YE 2002 2002年12月31日
× ドン・フライ 1R 6:10 TKO(マウントパンチ) PRIDE.21 2002年6月23日
× セーム・シュルト 1R 3:09 KO(左ストレート) PRIDE.18 2001年12月23日
× 藤田和之 2R 2:18 肩固め PRIDE.14 2001年5月27日
× キモ[1] 1:16 チョークスリーパー UWFインターナショナル
『5th ANNIVERSARY '96』 1996年8月17日
タイトル歴 [編集]

プロレスリング・ノア [編集]
GHCヘビー級王座 - 第4代(防衛0回)
GHCタッグ王座 - 第3代(防衛0回) パートナーは、大森隆男・第21代 パートナーは、佐野巧真
グローバル・タッグ・リーグ戦 - 2010年(第3回)優勝 パートナーは、佐野巧真
グローバル・リーグ戦 - 2010年(第1回)優勝
全日本プロレス [編集]
三冠ヘビー級王座 - 第39代(防衛2回)
世界タッグ王座 - 第38代(防衛0回) パートナーは、大森隆男
アジアタッグ王座 - 第66代(防衛0回) パートナーは、大森隆男
史上初の世界・アジア同時保持となった。
新日本プロレス [編集]
IWGPヘビー級王座 - 第32代(防衛3回)
NWFヘビー級王座 - 第20代(防衛7回)
中邑真輔(IWGP王者)との統一戦に破れ、同ベルトは再び封印された。
IWGPタッグ王座 - 第46代(防衛4回) パートナーは、鈴木みのる
WAR [編集]
WAR認定世界6人タッグ - パートナーは、安生洋二・山本健一
ZERO1-MAX [編集]
NWAインターコンチネンタルタッグ - パートナーは、佐藤耕平
天龍PROJECT [編集]
天龍PROJECT 認定世界6人タッグ - 初代 パートナーは、関本大介・後藤達俊
プロレス大賞 [編集]
2002年度 殊勲賞、年間最高試合賞 (高山vs永田裕志)
2003年度 最優秀選手賞
2004年度 最優秀タッグチーム賞(鈴木みのるとのタッグ)
2006年度 カムバック賞
2007年度 年間最高試合賞(三沢光晴・秋山準vs小橋建太・高山)
出演 [編集]

テレビ [編集]
ドラマ
「真夏のメリークリスマス」(2000年、TBS)
「利家とまつ〜加賀百万石物語〜」(2002年、NHK大河ドラマ)
「あなたの人生お運びします!」(2003年、TBS)※杉浦貴と共に出演
「特命係長・只野仁」(2004年、テレビ朝日)
「功名が辻」(2006年、NHK大河ドラマ) 蜂須賀小六役
バラエティ
Shibuya Deep A(2008年9月5日、NHK BS2)
クイズ!ヘキサゴン
クイズ!ヘキサゴンII
徹子の部屋
など
OVA [編集]
聖闘士星矢 冥王ハーデス十二宮編(巨犬座のシリウス)
映画 [編集]
「柳生外伝 くの一忍法帖」(1998年)
「血染めの大紋 喧嘩組」(ケイエスエス、1998年)サンダー岩城 役
「香港黒社会 喧嘩組」(ケイエスエス、1999年)サンダー岩城 役
「マッスルヒート」(2002年)
「魁!!クロマティ高校THE★MOVIE」(2005年)竹之内豊 役
入場テーマ曲 [編集]

『DESTRUCTIVE POWER』
(現在はニューアレンジバージョンを使用)
もとはNO FEARのテーマ曲として使用されていたものである。コンビ解消前には『Sympathy for the Devil』(ガンズ・アンド・ローゼズによるヴァージョン)を使用したこともあった。
【2010/12/31 00:56 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
日高郁人
日高 郁人(ひだか いくと、男性、1972年8月5日 - )は、日本のプロレスラー。島根県益田市出身。ZERO1所属。血液型B型。
プロレスラーとしては小柄でジュニアの体躯ではあるが、卓越した試合センスを持つ。格闘系のバトラーツ出身ながらも純粋なプロレスを貫き通し、その評判も高いことから「名勝負製造機」として賞される。入場時に着用しているオリジナルマスクは「flame」と称され、彼のトレードマークでもあり、マスクが作られる前から着用のタイツの右腿部分に大きくあしらわれていて、グッズ化も成されている。
とにかく動きや技が極めて速く、ZERO1-MAX中継実況の塩野潤二からは、“音速のブレードランナー”、“疾風の天才児”と形容される。
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1 来歴
2 得意技
3 タイトル歴
4 関連項目
5 外部リンク
来歴 [編集]

一度は大阪で就職するも、プロレスラーへの夢を諦めきれずアルバイトをしながら体を鍛え、1996年4月1日に格闘探偵団バトラーツに入門、1997年1月21日に船木勝一(元WWE所属のFUNAKI)を相手にデビューする。その後、ECWでの海外修行を経て2001年12月3日にバトラーツを退団、みちのくプロレス(ディック東郷や石井智宏らとFEC{ファーイーストコネクション}を結成)、大日本プロレス、ZERO-ONEと様々なリングを転戦し、2005年6月にZERO1-MAX所属となり現在に至る。その道中で行われた、共に「親友」と呼び合うパンクラスの伊藤崇文とのバーリトゥード対決は異色中の異色であろう(伊藤と知り合ったのは「大阪のボディビルジムでトレーニングしていた頃」と、対戦前にコメントしている)。
1998年3月29日、みちのくプロレスにて「藤田ミノル」と初めて組んで以来、合間合間で長いブランクはあれども現在までにタッグを組み続け、その相性の良さからお互いに「相方」と呼び合い2005年のプロレス大賞にてベストタッグ賞を受賞するに至った。また、デビュー戦の相手である船木を「師匠」と言って慕っており、彼の決め技である「ショーン・キャプチャー」も彼から使用許可を得て使っているものである。彼のオリジナルブランド「flamex」では有名な「I LOVE NY」Tシャツのパロディ「I LOVE SC(ショーンキャプチャー)」Tシャツを自らのプロデュースにて販売。豊富なカラーバージョンが存在するが、少量限定生産。
2006年4月のZERO1-MAXのS-ARENA大会に於いて、男女混成出身地別都市対抗戦が行われ、島根県益田市出身同士というよしみで豊田真奈美とのタッグを結成した。
ZERO1-MAXの夏の恒例である「火祭り2007」において、当初は日高はノミネートされていない(日高はジュニアヘビー級であるため、「火祭り」の直後に行われるジュニア版火祭りとも言える「天下一Jr.」への参加に照準を合わせている)。しかし、火祭りの参加選手であった村上一成が、開幕戦の大谷晋二郎とのリーグ戦で、大谷の過度な椅子攻撃により頭部損傷で絶対安静ということで、村上の枠が空白になったのに伴い、参加全選手10人の中の当初4枠をファン投票で選出していた中の5番手であった日高が村上の代役でAブロックより出場となった(村上の開幕戦の大谷戦は両者リングアウトの為1点獲得し、日高にその得点が引き継がれた)。以後日高は、体重差が2倍の巨漢である吉江豊に軽快な身のこなしから20カウント手前でリングインしリングアウト勝ちで2点、同門の崔領二には敗れたが、プロレスリング・ノアから参戦の齋藤彰俊にはこれも狡猾な両者リングアウトにより1点をもぎとり、4点でリーグ戦終了する大健闘を見せた。なお、Aリーグは日高を含め何と5人が各4点で横一線という結果でリーグ戦を終え、8月2日の後楽園ホールでの決勝戦の当日に5WAYマッチで決勝戦進出者を決定するということになり、崔領二が勝ち、Bリーグトップの田中将斗と決勝戦を行い(2006年と同じ決勝戦カード)田中が火祭り2連覇を果たした。
9月からの「天下一Jr.」では、トーナメント準決勝戦でDRAGON GATEの望月成晃に敗北。
10月26日、後楽園ホール大会でディック東郷を破りインターナショナルジュニアヘビー級王者に返り咲くも、2008年1月23日後楽園ホール大会にて「天下一Jr.」のリベンジを賭けた防衛戦で望月成晃に再び敗れ、王座を失う。 新日本との対抗戦でも金本浩二、田口隆祐とのシングルマッチで敗北を喫するなど深刻なスランプに陥るが、5月27日の後楽園ホール大会でタッグマッチながら望月から初のピンフォールを奪う。
2009年11月には、プリンス・デヴィットを破りついに「天下一Jr.」を初制覇。また同試合にかけられていたインターナショナルジュニアヘビー級王座を奪取し、3度目となる同ベルトを巻く。
2010年9月には「天下一Jr.」において史上初の連覇を達成。その直後の10月には歌手のあびこめぐみと結婚した事をブログにて発表した。
得意技 [編集]

ショーン・キャプチャー
一言で表現するなら前方回転式膝十字固め。相手がスタンドでグロッキー状態の時に、リング中央で両腕を開く大見得をきりながら観客と共に「ショーン・キャプチャー!」と叫び、技に移行する。この技で数多くの相手から勝負を奪い、2006年3月5日のプロレスリング・ノア日本武道館大会においても金丸からこの技でレフェリーストップ勝ちを奪った。元々は船木勝一のオリジナル技であったが、本人から使用許可を得て自身の絶対的なフィニッシュとしてこの技の価値を高めた。
ミスティー・フリップ
相手と同じ方を向いた状態で前に立ち、相手の首を自分の右肩に後ろから置き、コーナーを駆け上って後方回転をしながらそのまま相手の後頭部をリングに叩きつけるオリジナル技。最上位のフィニッシュムーブであり王座戦でも滅多に出さない。プロレスリング・ノア所属の丸藤が使う「不知火」と同形であるが、日高郁人の方が発表は早い。しかし所属・参戦団体の規模・TV中継の有無等で知名度は「不知火」の方が上となってしまっている。またコーナーを使わず自力ジャンプし、通常のリバースDDTの体勢で決める「SMF」(スタンディング・ミスティー・フリップの略)もある。
野良犬ハイキック
キックボクサー・小林聡直伝のハイキック。試合終盤に相手の側頭部へ連発して放つことが多い。強敵相手の切り札。
野良犬マシンガン
2007年から使い出したミドルキックの速射砲。相手が中腰、あるいはコーナーに押し込まれた状態で放つ。しかし速射性に重きを置きすぎるあまり、一発の威力が軽いとの指摘もある。
飛打キャッチα
飛打キャッチシリーズで唯一の丸め込み技。相手の股下を潜り抜けつつ変形のラ・マヒストラルを決める。
飛打キャッチIII
スピニング・レッグロックから入る、回転式のアンクルホールド。他にもバリエーションがある。
SRU
高速後方回転エビ固め。
SIC(ステップ・インサイド・クレイドル)
ステップDDT(スイングDDT)
相手に飛びついての旋回式DDT。タッグマッチではパートナーやカットに入ってきた相手のタッグパートナーを蹴って旋回するステップDDTも使用する。
ショーンキャプチャーへのプレリュード(低空ミサイルキック)
トップロープから相手の膝へ目がけて放つミサイルキック。ショーン・キャプチャーへ繋ぐ膝殺しの1つ。
イグチボム
キックを仕掛けてきた相手の蹴り足を捕らえてのライガーボム。対戦相手や試合状況により旋回式、クロスアーム式と使い分ける。
H8U
これで「Hate you」と読む。相手を両肩に担ぎ上げてからのみちのくドライバーII。太陽ケアのフィニッシュムーブであるTKOと同形。
アイル・ビー・バック
相手から攻撃されてリングからの転落する寸前にサードロープを掴み、反動と腹筋力を使ってまるでビデオの逆回しのようにリング内へと戻る。そこからフライングニールキックで逆襲する一連のコンビネーションを指す。厳密には「技」ではないが、日高を語る上では外せないムーブの一つ。
シュリケン
コーナーに追いやった相手に対しての側転→串刺し式ゼロ戦キックのコンビネーション。初期型は側転の後にバク転も決めていた。
ソラリーナ
マリポーサ・トペコンヒーロ
場外の相手に向かって、エプロンからロープに飛び乗りローリングセントーンの要領で捻りつつ突っ込んでいく。
タイトル歴 [編集]

ZERO1(旧ZERO1-MAX)
インターナショナルジュニアヘビー級王座 : 3回(第5代・第7代・第9代)
天下一Jr. : 2回(2009年・2010年)
AWA
AWA世界ジュニアヘビー級王座 : 2回(第2代・第5代)
PWF
PWFユニバーサルタッグ王座 : 1回(第11代 &藤田ミノル)
NWA
NWAインターナショナルライトタッグ王座 : 2回(初代・第5代 &ディック東郷→藤田ミノル)
プロレスリング・ノア
GHCジュニアヘビー級タッグ王座 : 1回(第3代 &藤田ミノル)
その他
4団体認定インターナショナルジュニアヘビー級王座 : 1回(第6代)
関連項目 [編集]

ZERO1
船木勝一
藤田ミノル
【2010/12/29 18:23 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
田中将斗
田中 将斗(たなか まさと、本名:田中 正人(読み方同じ) 男性、1973年2月28日 - )は、日本のプロレスラー。和歌山県和歌山市出身。ZERO1所属。ニックネームは「弾丸戦士 」「DANGAN」。
ヘビー級でありながらジュニア戦士並にリングの内外を所狭しと動き回り、主にハードコア路線を主軸にしている選手であるがラフ殺法のみならず、ねちっこいレスリングにも充分対応が出来るオールラウンドプレイヤー。
ZERO1-MAXの2006年7月の「火祭り '06」において悲願の初制覇を遂げる。「火祭り」開催から6年、毎年エントリーされ出場してきたが、ZERO1-MAX最高峰の称号である「火祭り」制覇を遂に現実のものとした。(後述)
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1 来歴
2 “鬼門”であった「火祭り」 初優勝
2.1 背景
2.2 本大会
3 得意技
4 タイトル歴
5 入場テーマ曲
6 関連項目
7 外部リンク
来歴 [編集]

和歌山県立和歌山東高等学校在籍時はラグビー部に所属し、国体に出場している。卒業後は住友金属ラグビー部での活動を経て1993年にFMWに入門。リッキー・フジ戦でデビューを果たした。大仁田厚引退後は、ハヤブサと共にエースとして新生FMWを引っ張る立場となり、「弾丸戦士」として人気を博す。ECWに長期遠征しポール・Eに惚れ込まれ、リングネームを「MASA TANAKA」としECWのトップレスラーの一人として活躍し、日本人で唯一ECW世界ヘビー級王座にも就いた。しかしながらFMWの経営危機による帰国要請によりECWを離脱し、FMWへ復帰した。
FMW復帰後、2001年2月に邪道、外道、中山香里と共に「コンプリート・プレイヤーズ」を結成し、FMWを離脱。全日本プロレスとZERO-ONEに参戦し、後に橋本真也との一騎打ちを申し込み(その際事務所に勝手に殴り込みをかけ、橋本に直訴、ショップの商品を荒らし放題荒らし実力行使に出た)2002年3月に両国国技館でシングル対決が実現したが、半ばやられ放題で軍門に下った。しかしその対決を機に橋本に見込まれてZERO-ONEに入団する。
大谷晋二郎とは同年齢であり、お互いを意識し刺激し合い“永遠のライバル”と言い続ける。しかし橋本という団体トップの人間を倒し、世代交代を提唱するにあたり、ライバルというスタンスは消えてはいないものの互いの力を結束しようと「炎武連夢(エンブレム)」を結成し、他団体でも大車輪の活躍を見せつけ2002年にはプロレス大賞ベストタッグ賞を受賞する。また同年には大谷とのタッグでROHへも登場している。
2004年2月19日に以前からタイトルマッチでありながらハードコアにこだわる田中と、ベルト防衛の意志を尊重する大谷と方向性の違いで仲違いを起こし炎武連夢を解散し、金村キンタロー、坂田亘らと共にZERO-ONE正規軍と敵対した(エロティックス結成)。ZERO-ONE解散後は大谷らとともにZERO1-MAXに合流。2005年の4月に佐藤耕平と崔リョウジの要望を機に炎武連夢を再結成し、ヤングMAX軍と世代闘争を繰り広げている。ZERO1-MAXの母体であるファースト・オン・ステージがDSEとともに製作に関わるプロレスイベント、ハッスルにもレギュラーとして参戦する。
ハッスル登場の際には、「HUSTLE 01」と書かれた赤い半そでのジャージを着て入場し、グレーのジーンズ(2つともハッスル14から)を穿いて主にハードコア系で活躍している。出場時は白いギター(叩くと白い粉が出てくる)を持参する。HHH〜ハッスルハードコアヒーロー〜でチャンピオンになった時の初防衛した後に、人狼にゴールデンロットで頭を叩かれて頭から血が出て、更にはその後に高田総統に、「初防衛おめでとう、佐藤君。いや、鈴木君だっけ?」と言われたことがある。その理由は、田中と言う苗字がとても地味なため。その後も、川田利明とタッグになったときに控え室で「おっ鈴木!。じゃなかった佐藤!」と言われたり、島田二等兵から「地味なチャンピオン」とも言われたりしていた。その後、金村キンタローとタッグを組んだ時は、金村のよき突っ込み役(?)として共に頑張っている。ちなみに、田中はハッスル16以外は全てのハッスルのシリーズに出場していたが、肩の手術のために欠場した。
2005年6月12日には、WWEのPPVであるWWE ECW's One Night Standに出場。マイク・オーサムとの試合はECWファンに賞賛された。翌年にも同大会に参戦した。
2006年には、大日本プロレスにて、黒田哲広とのタッグを結成(6人タッグのときは、金村キンタローも参加)。田中を目標としている関本大介との世代闘争を展開している。また2005年から始まった新日本プロレスとの抗争においては、金村キンタローや黒田哲広らとタッグを組み、ライガー、邪道、外道らのジュニア戦士と対戦した。
2006年11月29日に右肩手術が行なった。
2008年4月6日、中西学と世界ヘビー級選手権のタイトルマッチを行い、ベルトを防衛している。この抗争の中で生まれた金本浩二との確執から金本の挑戦を受け勝利しベルト防衛、その後も真壁刀義に火祭り2008決勝で勝利し、永田裕志との抗争を開始し世界ヘビー級選手権を賭け対戦するも敗れ、2009年1月4日東京ドーム大会でリターンマッチを行なうも連敗した。
2007年から体重を絞り始め、現在は95kg(以前は108kg)とジュニアヘビー級の体重となっている(体脂肪だけを落とした)。
2008年10月のプロレス・エキスポではライバル関本大介とタッグを結成し、大陸別タッグトーナメントで優勝を果たした。(準優勝はモーターシティ・マシンガンズ)
2009年新日本プロレスの頂点を決める真夏のG1にエントリーした。
“鬼門”であった「火祭り」 初優勝 [編集]

背景 [編集]
ZERO1-MAXのタイトルマッチとは別の、毎年夏の(第1回は2001年9月中旬で以後の年は7月末に開催)年に一度の上級グレードレスラー10人(同団体以外の他団体所属やフリーランスのレスラーを数人含む)が2ブロックに別れて総当り予選リーグ戦で鎬を削り、両リーグの最高得点者同士が決勝戦でNO.1を決定する「火祭り '○」(○内は西暦年)が開催される。
田中は同団体の前身団体であるZERO-ONEの所属選手になった2001年の「火祭り '01」(第1回大会)から毎年エントリーされている。ライバル大谷は2001年、2002年、2005年の覇者となっているが、田中と大谷は「火祭り '01」以外は全て同ブロックになり、「火祭り」での直接対決では2005年までの通算成績が3勝1敗(しかも3連勝中)と田中が優勢であったが、田中は毎年優勝候補に挙げられながらもそれまで無冠のままだった。ライバルと本当の意味で肩を並べるために、火祭りでの優勝は田中の宿願となっていた。
そういった背景の中で、田中は2006年大会を迎えた。この大会ではAWA本部からの指令を受けるかたちで、予選からのエントリーとなってしまい、田中と後藤達俊と安田忠夫という3人でエントリー権を争う3WAYマッチが行われる。試合は、戦前の「元新日勢同士が結託し田中潰しをするのではないか」という予想通りの展開であったが、安田の時たま見せる2人に戦わせ自分は高みの見物といった態度に後藤が腹を立て、まず後藤が安田をフォールし、次に田中が後藤に勝利し予選を勝ち抜き、本選エントリーを勝ち取った。
本大会 [編集]
2006年本大会は、近年田中について廻る古傷の右肩や大会前に負傷した右膝という爆弾を抱えて例年以上に体調が厳しい状態であり、プロレスマスコミも優勝候補に田中の名前を推すものは少なかった。
そしてその予想が的中したように、開幕戦の吉江豊戦では体重で圧殺されて敗北という苦しいスタートとなった。続く本間朋晃には勝ったものの、村上一成戦では流血戦を強いられ苦戦。しかし自分の血を口に含んだ一瞬の隙による毒霧攻撃からの弾丸エルボーで勝利。そして大谷晋二郎との直接対決はお互いの弱点を責める試合展開の末に30分の時間切れ引き分けで乗り切り、Aブロック予選リーグをなんとか勝ち点5で終了した。しかしAブロックでは勝ち点5で本間以外の4人の横一線で並ぶ前代未聞の大混戦となり、田中・大谷・村上・吉江の4WAYマッチでAブロック代表を決定することになった。この厳しい非常事態にも田中はなんとか勝ち抜き、遂にAブロック代表として初の決勝に進んだ。
対するBブロックは、ZERO1-MAXの若手で「もはや“年寄り”には任せられない。俺が優勝して団体を引っ張る」と公言してはばからない崔リョウジが代表として勝ち抜き、優勝戦は「田中vs崔」で雌雄を決することになる。田中はウィークポイントを抱え、Aブロック代表決定戦を戦った後の2試合目という強行軍。一方、崔は前日までにひと足早く決勝進出を決めており、田中にとっては不利なハンデ戦を強いられることになった。
決勝戦は大方の予想通り、序盤は崔の波状攻撃を田中が一方的に受けるという試合展開に。満身創痍の田中はこれを気力で持ちこたえ、攻め疲れが見え始めた崔の攻撃が止まるのを待って技を仕掛けるが、レスラーとしての伸び盛りにあり急成長を遂げた崔の耐久力と、田中自身が負傷によりいつもの攻撃力を発揮できない状況で、決着はなかなかつかなかった。しかし最後は田中の意地が勝り3カウントを奪取。遂に火祭り悲願の初制覇を達成する。田中にとっては6度目の正直であった。
得意技 [編集]

弾丸エルボー
ラリアット
かつてエルボーとラリアットどちらもフィニッシュムーブとして使っており、現在も両方併用している。これは非常に珍しい。
弾丸ローリングエルボー
相手の攻撃を体勢を低くして交わしつつその場で回転し、その勢いで相手の顔面にエルボーを打ち込む技。
スライディングD
「スライディング弾丸エルボー」の略。2007年の火祭り中に披露され、強敵相手のフィニッシュムーブとして使っている。
ダイヤモンドダスト
コーナー上でドラゴン・スリーパーに捕らえた状態から自らが前方回転してスタナー(肩にで相手の顎を砕く)を決める。
コンプリートダスト
カナディアン・バックブリーカーの状態から相手を、自分から見て前に向かって180度回転させて落としていく。DRAGON GATEの横須賀享の友情とほぼ同形だが、こちらはフェイスバスターの色が濃い。かなりのレア技。
ダイヤモンドトルネード
ファイヤーマンズキャリーの状態から旋回させてロック・ボトムで叩きつけていく。開発して以降ほとんど出していないレア技。
スーパーフライ(フロッグスプラッシュ)
やる前には「スーパーフライ!!!」と叫ぶ。かつての同志、外道も同じ技を同じムーブで使用する。
トルネードDDT(スイングDDT)
ECW時代田中の代名詞の技。相手をイスの上、机の上に脳天から突き刺すことが多い。
「まとめてー!」
タッグマッチで相手2人がリング上にいる時に両手で2人をヘッドロックし「まとめてー!」の甲高い田中の声とともにDDTとスタナーを2人に同時に行う技でタイミングの良さは絶妙。
垂直落下式ブレーンバスター→ファルコンアロー
試合の流れを引き込むために垂直落下式ブレーンバスターをよく使用するが、強敵相手にはマットに突き刺した後で間髪入れずにファルコンアローへ繋ぐことも多い。
ハーフネルソンスープレックス
時々終盤に使用している。
タイトル歴 [編集]

WEW
WEWシングル王座
WEWタッグ王座
WEW6人タッグ王座
ECW
ECW世界ヘビー級王座
ECW世界タッグ王座(w / ボールズ・マホーニー)
FMW
世界ブラスナックル王座
インディペンデントワールドヘビー王座
世界ストリートファイト6人タッグ王座
NWA
NWAインターコンチネンタルタッグ
ハッスル
HHH(ハッスル・ハードコア・ヒーロー)王座
AWA
AWA世界ヘビー級王座
ZERO1-MAX
ZERO1 世界ヘビー級王座
火祭り優勝(3回/2006年・2007年・2008年)
天下一Jr.優勝(1回/2007年)
プロレス大賞
2002年プロレス大賞ベストタッグ賞(w / 大谷晋二郎)
入場テーマ曲 [編集]

弾丸 -D・A・N・G・A・N-
【2010/12/29 18:22 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
高西翔太
高西 翔太(たかにし しょうた、1987年2月25日 - )は、日本の男性プロレスラー。北海道苫小牧市出身。身長170cm、体重83kg。ZERO1所属。
2005年4月に全日本プロレスに入門したが、11月に退団し、キングスロードに入門した。
2006年1月15日、後楽園ホールで行われたキングスロード旗揚げ戦における石川雄規戦でデビュー。
2006年7月1日のキングスロード崩壊に伴いZERO1(当時:ZERO1-MAX)へ移籍、同時に大森隆男のチーム「アックスボンバーズ」の新メンバーとして加入した。
2006年11月14日、後楽園ホールで行われた第1回GPWA興行「Realize」では第1試合、プロレスリング・ノアとZERO1-MAXとの対抗戦に出場、一番若い高西がノア勢に痛めつけられる展開になったものの、負けん気の強い戦いを見せて評価を上げた。
2008年5月29日後楽園ホールにて引退試合を行ったが、2009年10月10日に復帰した。
得意技 [編集]

フィッシャーマンズ・スープレックス
スーパーフライ
【2010/12/29 18:22 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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