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カリビアン・RUM(カリビアン・ラム)は、日本の女子プロレスラー。
身長162cm、体重60kg、血液型不明。 正体は明かされていないが、男子説が根強い。 経歴・戦歴 [編集] 2006年 10月7日、東京・新木場1stRING「格闘美~Dreamer06~」において、対渋谷シュウ、浦井百合組戦でデビュー。デビュー戦のパートナーは、カリビアン・KIM。カリビアン・インパクトで浦井から勝利。 10月28日、東京・新木場1stRING「格闘美~Dreamer06~」において、チェリーと対戦。勝利。 12月3日、東京・新木場1stRING「格闘美~Dreamer06~」において、風香と対戦。敗れる。 得意技 [編集] カリビアン・インパクト カリビアン・ジャベ 入場テーマ曲 [編集] 「パイレーツ・オブ・カリビアンのテーマ」 PR |
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蝶野 正洋(ちょうの まさひろ、男性、1963年9月17日 - )は、日本のプロレスラー。アメリカ合衆国ワシントン州シアトル生まれ、東京都三鷹市育ち。闘魂三銃士の1人。口ひげがトレードマーク。
「ARISTTRIST」(アリストトリスト)という、マルティナ夫人をトップとするグッズブランド・個人事務所も持っており、夫人がデザインした黒色のガウン、レッグガード付きロングタイツを試合時に着用。プライベートでも主に黒色の服を着用している。「オレだけ見てりゃいいんだオラ! I AM CHONO!」が決め台詞。 目次 [非表示] 1 来歴 2 人物 3 入場テーマ曲 4 主な得意技 5 獲得タイトル 6 夏男・蝶野正洋 7 CD 8 CM出演 9 商品プロデュース 10 映画出演 11 著書 12 脚注 13 関連項目 14 外部リンク 来歴 [編集] サラリーマンであった父親の赴任先であるワシントン州シアトルで生まれ、2歳で帰国し、川崎市多摩区、東京都渋谷区を経て三鷹市で育つ。東京都立永山高等学校ではサッカーと暴走行為に明け暮れ、その後「親が大学に行けとうるさいから」との理由で2浪した後に神奈川大学に進学するが、同時期に受けた新日本プロレスの新弟子試験に合格。大学に籍を置いたまま入門し、後に中退する。 1984年4月に新日本プロレスへ入門し、同年10月にプロデビュー(初戦の相手は同じくデビュー戦の武藤敬司)。1987年の第3回ヤングライオン杯で橋本真也を破り優勝し、後にドイツ、アメリカ合衆国へ遠征。ドイツでは現在の夫人であるマルティナ・カールスと出会う。アメリカではテーズ道場に短期滞在し、STFを伝授される(当時、道場にいたセッド・ジニアスが直接教えたという説もあり)。 遠征からの帰国後は武藤敬司、橋本真也とともに「闘魂三銃士」として活躍するものの、人気は武藤と橋本の後塵を拝す。しかし、1991年に新日本プロレスの夏期興行G1 CLIMAXの第1回大会を制したことを契機に注目を浴びるようになる。翌年のG1でも優勝を果たし連覇を達成。「夏男」と呼ばれるようになる。 私生活では1991年にマルティナと結婚。2006年7月に結婚15年目にして第1子となる男児が誕生、2009年8月に第2子となる女児が誕生している。 1994年のG1優勝後、「武闘派宣言」によって入場テーマ曲も変えてヒールターン。黒を基調としたコスチュームに一新し、馳浩を大流血に追い込んだ末出血する頭部を掻きむしりながらのSTFで葬る。テーマ曲など現在まで続くスタイルを確立した。週刊プロレスはこの蝶野を「BLACKJACK」と称した。1995年に天山広吉、ヒロ斎藤とヒールユニット狼群団を結成。1996年に新日本と提携していたWCWに参戦、ハルク・ホーガン率いるnWoに加入し、帰国後にその日本支部としてnWo JAPANを結成。その総帥としてグレート・ムタ(既に武藤敬司として活躍)ら日本人、外国人メンバーを次々と増殖し、「nWo Tシャツ」が大量に売り上げられるなど、一大ムーヴメントを起こし、同年「プロレス大賞MVP」を受賞する。1998年8月8日、大阪ドームで藤波辰爾を破り、8回目の挑戦にして遂に悲願のIWGPヘビー級王座初戴冠。しかし首の負傷により、防衛戦を行うことなく王座を返上、長期欠場に入り、メンバーであった武藤に託すが、nWoの実権を完全掌握されて、行き場を失った蝶野は武藤に反発した。 復帰後の1999年、AKIRA、ドン・フライらと共にTEAM 2000を結成。武藤率いるnWoと抗争を開始し、2000年に武藤との決着戦に勝利。nWoを消滅(実際にはWCWとの提携解除に伴いnWoの使用権が消滅したため)させ、nWoの残存勢力を吸収し組織を拡大。同年、所属選手の大半が離脱し、存続の危機に陥った全日本プロレスから渕正信が新日本に登場。蝶野がマイクパフォーマンスで応戦し、対抗戦の口火を切る。単身全日本プロレス日本武道館大会に歴史的参戦。渕とシングルマッチを行い勝利後、「お前ら家に帰ってマスでもこいてろ!」とアピールし全日本ファンを敵に回した。 2001年は武藤率いるBATTと抗争。2002年、札幌大会でアントニオ猪木に直訴し、現場責任者に就任。5月2日の東京ドーム大会でプロレスリング・ノアの三沢光晴と初対決。30分ドローに終わる。8月には4度目のG1優勝を果たした。大会後、魔界倶楽部、高山善廣、藤田和之ら外敵との抗争に入り新日本隊に合流し、TEAM 2000は自然消滅。2003年にノアに初参戦、三沢と組み小橋建太&田上明組と対戦。5月の新日本東京ドーム大会では小橋の持つGHCヘビー級王座に左足靭帯損傷の状態で挑戦。敗れるも「ミスタープロレス対ミスタープロレス」と称されたこの試合で蝶野は小橋のハーフネルソンスープレックス6発を受けきって見せ、小橋と共にファンの大喝采を受けた。 2005年にはヒールユニット、ブラックニュージャパン (BNJ) を結成。8月、G1で5度目の優勝を果たし、同年に急逝した橋本真也に優勝を報告した。長州力が新日本に戻ってくると反長州を掲げ抗争を開始。2006年には新日本社長サイモン猪木と抗争を開始する。 2007年1月4日、東京ドーム大会で武藤とタッグを結成して勝利。G1 CLIMAXにおいて真壁に敗北をした後、リング上にて長州、越中、マシン、ライガーを呼び出し、新軍団結成を呼びかけた。 2007年9月1日 - 2日、幕張メッセ国際展示場・11ホールにおいて「蝶野王国2007 in 幕張」を開催。長州力率いる『LOCK UP』、藤波辰爾率いる『無我ワールド・プロレスリング』、新日本プロレスの3団体合同興行となった。これと同時に三田証券と組んでイベントを証券化することも発表された。資金調達の手法としてファンドの活用を行うことはプロレス界にとって初めてのことであり、プロレス界の復興に向けた取り組みとして注目されている。 2008年から、自身がGM(ゼネラルマネージャー)を務める「PREMIUM」興行を開催している。ただ、2008年の時点でほとんどシングルマッチを行っていないのが現状である。 2009年1月4日、東京ドーム大会でケビン・ナッシュ、カート・アングル、長州力と日米レジェンドタッグを結成し、G・B・Hに勝利を収めている。10月3日、ノア・大阪府立体育会館で行われた三沢光晴追悼興行に参戦。かつて戦った小橋と、GHC王者の潮崎とタッグを結成した。10月12日、蝶野正洋25周年特別興行「ARISTRIST IN 両国国技館」開催。自身は小橋と武藤とタッグを組んでメインイベントに登場して勝利した。 2010年1月4日の東京ドーム大会を最後に、蝶野は首や両膝の治療と本人曰く「体のリビルド」のために長期休養に入った。1月21日に自身の25周年記念パーティーを行い、これに先立って行った会見の中で、2010年1月末をもって新日本プロレスを退団し、フリーランスとなることを明かした。 2010年7月31日、11月5日・6日に行われる全日本プロレス台湾興行にて復帰することを発表。 2011年より師匠であるアントニオ猪木が会長を務める「イノキ・ゲノム・フェデレーション」(IGF)のエグゼクティブプロデューサーに就任することが決まった。なお、IGFでは選手としてはリングに上がらずプロデュースに専念する予定。 人物 [編集] プロレスマットで見せるヒールさとは違い、実生活では、プロレス界とりわけ新日本プロレスきっての常識人として知られ、敵対団体の先輩レスラーに対しても敬称で呼ぶことを怠らない。この性格は新人時代からのようで、武藤敬司が雑誌の取材に対し、「俺はまともだって? 俺はやんちゃでも橋本よりは目立たなかっただけさ。蝶野が一番まともな常識人だったよ」と語っている。同期であっても年上の武藤を「武藤さん」と呼ぶ。同期の橋本は年下ではあるが、私生活では「ブッチャー」と呼ぶものの、公式の場では「橋本君」と呼んでいて、死去後は自身の雑誌連載などで「橋本選手」、「ブッチャー」としている。ヒール転向もゲスト解説として実況席に座ることがあり、常に敬語で丁寧に解説し、またアナウンサーに呼ばれ思わず「はい」と丁寧な返事をしてしまったこともある。信頼性を重視するプロレスリング・ノアの三沢光晴が新日本の関係者で唯一信頼した人物と言われる。 体が固いことで知られる。田中秀和の新日本プロレスのビデオでの解説によると、蝶野は体が固いため関節技が決まりやすく、またケガもしやすいので心配な面があると語っている。 常識人と言われる一方で遅刻癖があり、半日近く遅刻したこともある。そのため本来の集合時間より早い時間を集合時間として伝えることを“蝶野時間”と言われている(PS2版レッスルキングダムクロストークDVDで暴露、収録当日も本来の集合時間より一時間早い時間を伝えられていた[1])。 恐妻家として知られている。夫人には帰宅する時間を必ず出かける前に伝えないといけない。さらに帰宅が1分でも遅れると家に入れてもらえないという。また、夫人との日常会話は全て英語のみである。 夫人との馴れ初めは、蝶野がドイツ遠征に行った際、現地のレストランでウェイトレスをしていた彼女に一目惚れした蝶野が、その店に毎日のように通ったことがきっかけとなっている。彼女と知り合いになるために、毎回同じメニューを注文し続けた結果、最後には何も言わなくても、その料理を持ってくるようになったそうである。 夫人との間に2人の子供がおり、休日は子供につきっきりになるほどの子煩悩である。 甘い物に目が無く特にチョコレートケーキが大好物である。 普段は非常に穏やかな人物像が知られている。バラエティ番組にも多く出演しており、以下のようなエピソードがある。 1989年11月14日の『笑っていいとも!』テレフォンショッキングに橋本真也の紹介で出演した。当時はヒールターンでブレイクする前だったので、トークでは自嘲気味に当り障りの無い話をし、お友達の紹介は女優の田中美奈子であったがなぜか蝶野と田中の会話は無かった。 『どっちの料理ショー』に出演した際には、空腹で途中から全く喋らなくなってしまい、共演者の松本明子から「蝶野さん!蝶野さん!喋ってくださいよ!『I'm CHONO!!』」と言われたほどである。 『さんまのまんま』に、後輩の天山広吉らと一緒に出演した際にも、抗争中の選手(当時は天山と)が横にいるにもかかわらず、非常に穏やかであった。 『めちゃ²イケてるッ!』に出演した際には愛猫のピーちゃんと毎日ベッドで寝ていること、奥さんの前でバレエの『白鳥の湖』をよく踊ることを暴露された。 『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』の「笑ってはいけないシリーズ」でほぼ毎年制裁ビンタの執行役として登場し、笑ってはいけないシリーズの準レギュラー的な存在になっている。 2007年大晦日『絶対に笑ってはいけない病院24時』 2008年大晦日『絶対に笑ってはいけない新聞社24時』 2009年大晦日『絶対に笑ってはいけないホテルマン24時』 ウソのつけない正直な性格で、『とんねるずのみなさんのおかげでした』内のコーナー「食わず嫌い王決定戦」に登場した際、レバ刺しを食べたとき、対戦相手の岸本加世子に突っ込まれると、「鋭いですね」と、答えを公表してしまったこともある。 nWo時代はよく実況アナウンサーの辻よしなりに絡んでいた。真鍋由と絡む大仁田厚に対し「オレは素人には手を出さない」と言いながらも、自身は辻のメガネを壊したり、チャンピオンベルトで殴打するなどの暴力、ワイシャツにスプレーで「nWo」と落書きしたりしていた。ただ、共著があることからもわかるように、実際には抗争していた時代から互いに信頼関係を保っていたようである。 高校時代にサッカーに勤しんだこともあって無類のサッカー好き。2006年3月25日、Jリーグ横浜F・マリノス対浦和レッドダイヤモンズ戦のTV中継(副音声)にゲスト出演した際、アップで映し出された田中マルクス闘莉王選手を見て「闘莉王、髪ヤバくない?キてるよ〜、ヤバいよ」と連呼、無邪気にはしゃいでいた。 横浜ベイスターズの三浦大輔投手、鈴木尚典外野手と親交があり、以前はnWo時代を中心に三浦がリングサイドで観戦したり、逆に横浜スタジアムの試合前にnWo軍で激励に行ったりしていた。1998年に横浜ベイスターズが優勝した時は、三浦と鈴木尚はnWoのフェイスペインティングをしてビールかけをした。 J sports ESPNで放送中の新日本プロレスSXWなどで実況を務めるフリーアナウンサーの鍵野威史は小学校時代の同級生。 サインを求めに来るファンに気軽に応じることでも知られている。ヒールターン直後はファンを追い払うことも多かったが、その気持ちが変化するきっかけになったのは名古屋駅で新幹線を待っていた時にジュビロ磐田の選手達の一群を見かけたこと。当時のジュビロには「闘将」と呼ばれたブラジル代表主将・ドゥンガが在籍しており、先述のように高校時代はサッカーに明け暮れた蝶野にとって彼はまさにスターとも言える存在だった。蝶野はドゥンガにサインをもらおうと思ったが「ヒールレスラーが他のスポーツ選手にサインをもらう姿を見たらファンが何と思うだろうか…」とためらっていたところ、ジュビロのエースストライカー中山雅史が「蝶野さん、サインしてください」と近寄ってきた。何のためらいもなくサインを求めに来た中山の姿を見た蝶野は、これがきっかけで以降はファンにサインをするようになったという(中山とはこれ以降交友がある)。この話はベースボール・マガジン社から発行される隔月刊誌「スポーツカードマガジン」に掲載されたが、同誌では同時に「蝶野のカードにサインをしてもらう場合は、銀色のペイントマーカーを忘れないように」ともアドバイスしている(プロレスラーのカードは室内で撮影されるものが多く、その結果背景がどうしても暗くなってしまう上、蝶野のコスチュームが黒を基本としているため、黒のマジックではサインが分からなくなってしまうというのが理由である)。黒のカリスマのニックネームは週刊ゴングの金澤克彦による命名である。 1999年12月、夫人との二人三脚のブランド「ARISTRIST」(アリストトリスト)を設立。デザインコンセプトはブラックを基調とし、「ストリート・フォーマル・ファッション」をキーワードにアパレル以外にもサングラスから靴までトータルデザインを手がけている。現在表参道に出店。 新機能サウナウェア「インナーサウナスーツ」をアリストトリスト開発、蝶野正洋考案。同店舗を中心に販売。 2007年10月6日に公開された松竹映画『未来予想図 〜ア・イ・シ・テ・ルのサイン〜』を撮った映画監督・蝶野博は、従兄弟にあたる(蝶野の父の弟の息子とのこと)。9月14日に大阪で行われた会見で、「大阪を舞台にしたアクションで」と次回作出演ラブコールを送っていた。 試合前や試合中の口癖は、「○○○○なんだよーコラー!、えっ!!」と相手レスラーに吠えている。 ルー・テーズの最後の試合相手である(1990年12月26日、浜松アリーナでシングルマッチで対戦)。 若手時代はパンチパーマに口髭で一見その筋の人にも見え、ファイトスタイルなどから「藤原ニ世」と呼ばれていた。 入場テーマ曲 [編集] 「FANTASTIC CITY」 1991年まで使用。作曲はプロレス入場曲を多く手がける鈴木修。 「FANTASTIC CITY '92」 「FANTASTIC CITY」のスローテンポバージョン。1992年から1994年のG1クライマックスまで使用。 「BLACK RAIN」 1994年のG1クライマックスで当初使用していた曲。大会の期間中に再び「FANTASTIC CITY'92」に戻されており、使用期間の非常に短い幻のテーマとなっている。 「クラッシュ〜戦慄〜」 ロイヤル・ハント「MARTIAL ARTS」のタイトル違い[2]。一般的に「CRASH(クラッシュ)」と呼ばれている。現在使用されているパフ・ダディーの「No Way Out」と「VICTORY (NINE INCH NAILS REMIX)」の一部が前奏として付け加えられているバージョンを、特に「AT (ARISTRIST) CRASH」と呼ぶことがある。前奏部分の歌詞は、「Damn. I would have never thought it ever would have been like this.Fuck you all niggaz wanna do!(和訳:クソったれ、こんなになるとは思ってなかった。この野郎、一体何がやりてえんだ)」となっている。テレビ朝日では江頭2:50の登場曲としても使用されることもある。 「nWo CRASH」 - 「CRASH」の前奏部分をnWoジャパン共通の前奏にし、間奏部分に「nWo」などの音声を入れたもの。nWo所属時にのみ使用。 「CRASH 君が代バージョン」 - 「CRASH」の前奏部分を「君が代クラブミックス」(エレクトリックギターベースによる君が代)に変更したもの。東京ドームで行われた大仁田厚とのノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチ、女性レスラーであるジョーニー・ローラーとのシングルマッチでの入場時に使用されて、ハマーに乗って登場した。 「HARD CRASH」 - 「CRASH」のハードバージョン。打ち込みサウンド主体・シンセサイザーを効かせた前奏・冒頭の肉声が入らない、などノーマルのCRASHとは一風異なる曲調。蝶野が現場監督を勤めていた一時期のみ使用していた。2003年に参戦したプロレスリング・ノアでも使用した。また、オールスタープロレスリングでも使用されている。 主な得意技 [編集] 派手な技はあまり使わず、基本的でシンプルな技を中心に試合を組み立てる。相手にやられて虫の息になったように見せかけて(いわゆる「死んだフリ」)、相手レスラーの隙を突いて攻め立てる試合が特徴である。 ケンカキック(ヤクザキック) サッカー時代に培った強靭な下半身を利して相手の顔面を蹴り倒す技。元々は「ヤクザキック」(若手時代から使っており、当時の蝶野の髪型がパンチパーマだったため、その容姿と関連して)と呼ばれていたが、テレビでは「ヤクザ」が放送上大っぴらに使用できない言葉のため、ケンカキックと呼ばれるようになった。ビッグブーツと呼ばれる蹴りと異なり、当てる相手に対して体が開き、斜めに向くことが特徴。高山善廣によると、蝶野のブーツの裏は非常に硬いらしく「ある意味反則キック」とのこと。 シャイニングケンカキック(シャイニングヤクザキック・シャイニングマフィア) 相手の片膝を踏み台にしてのヤクザキック。ライバルの武藤が繰り出すシャイニング・ウィザードを蝶野風にアレンジした技。近年のフィニッシュ・ホールド。「シャイニングブラック」と「週刊プロレス」に記載された時期もあった。 スライディングケンカキック(スライディングヤクザキック) ヤクザキックの派生技で、体勢を崩した相手の顔面へ、スライディングしながらケンカキックを打ち込む技。 この技のコーチは『これを選手がまともに受けたら、どうなるかわからない』と言った危険度の高いキックである。 STF 蝶野の代名詞的な関節技。最近は試合中盤で出す繋ぎ技・痛め技になっているが、大一番ではこれの派生技をフィニッシュとして使うことがある。この技の元祖であるテーズはSTFに説得力を持たせた蝶野のプロレスセンスを高く評価していた。若手の頃はパワーボムを放った後足を取りSTFに移行する連携も使用していた。 クロス式STF 相手の両足をクロスさせ、動くことを困難にさせる。ロープエスケープが出来ないためほぼ確実にタップを取れる技である。滅多に出すことはなく、ドーム大会などのビッグイベントでのみ繰り出す。 原型STF 相手の顎から右側面を左手で押さえ左側に力を加える。締め上げるのでは無くイメージ的にはのけ反らすといった感じ。通常のSTFからの連携も一時期使用していた。 STS フェースロックではなく、スリーパーに捉える。これは実況をするアナウンサーがこの形になったときに叫ぶ程度で一般には呼称は定着していない。最近繰り出すSTFはこの形に近くなっているようである。 FTS STFを体勢そのままに相手を上に体勢を入れ替える。馳浩が繰り出した裏STFとの違いは、トーホールドが完全に決まっている状態で返している点にある。体勢を逆にするということで、技名もSTFの逆。ただし最近はFTSも裏STFと呼ばれることが多い。 羽根折り固め(バタフライロック) 尻餅をついている相手の両腕を締め上げ、首を前方へと押さえ付け、首関節・肩を極めるとともに呼吸困難にさせる技。相手のスタミナを奪う目的で使用することが多い。一時期、この技をフィニッシュ・ホールドに使用していた。正式名称は羽根折固め(リバースフルネルソン)だが、蝶野が使う場合は使用者の苗字もしくは使用時の見た目から、「バタフライ・ロック」とも呼ばれる。 バックドロップ 蝶野のバックドロップはルー・テーズからアドバイスを受けたものでいわゆる「ヘソ投げ式」のものであるが、低空で落とすまでのスピードが速く角度が鋭角である。大一番でしか繰り出さない技。ハイアングル気味に持ち上げる時は相手に切り替えされるという「お約束」もあったが、小橋建太との戦いでは危険な角度で小橋を3連続で投げ飛ばし、話題となった。 ダイビングショルダーアタック トップロープから跳んで相手の肩口に向かってショルダータックルを決める技。若手時代からの得意技。専門誌のインタビューでも語っているが、蝶野の唯一といっていい派手な動きをする技。 蝶天魚雷 天山広吉と同時にトップロープから飛んで行うショルダータックル。タイミングを計ることが難しく、公開された当初はバラバラに行っていた。 CTC 天山広吉との合体技。膝を付いた相手に対し、蝶野の膝蹴りと天山のパンチを挟み込むように当てる。Chono Tenzan Crushの略。 ゴッチ式(ドイツ式、ジャーマン)パイルドライバー 股下をクラッチしたドリル・ア・ホール・パイルドライバー。抱え上げ形の技をあまり使わない蝶野にとっては珍しいリフト系の技である。近年では相手の股に手を当てがい落差を増す程度でクラッチまでには至らないことの方が多い。 G1パワーボム 第1回G1を優勝した際は、この技で最後粘る武藤を振り切った。そのときのインパクトから、蝶野のパワーボムは特別に「G1パワーボム」と呼ばれている。蝶野のパワーボムは、自分の両膝を着きながら相手を叩き付けている。 ネックブリーカー・ドロップ スイング式ネックブリーカーだが上記の技名で呼称されることがほとんど。ケンカキックやSTFへの布石、繋ぎ技として試合中盤に古くから好んで使用している。独特のタメがあるのが特徴。 マンハッタン・ドロップ 相手の股間部分や尻に打撃攻撃を与える技。ラフプレーを身上とする蝶野らしい技。 エルボー ヒールターン直後に多用していた。実況解説から「毒針」と呼称されたこともあった。しかしその後はほとんど使われなくなった。 フライングニールキック(バタフライニールキック) 大一番で稀に繰り出していたがシャイニングケンカキック等に取って代わられたのか、使われなくなった。蝶野の場合俗に言う「扇を広げる形」とは異なり、半身を返して当てて行くスタイル。 急所攻撃 厳密には反則技であるが、ヒールターン後の蝶野は試合時に股間攻撃を巧みに繰り出している。具体的にはバックを取った相手にバックヒールのような形、仰向けの敵の股間にヘッドバットや膝を落とすような形、など様々。 張り手 数年前から、ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!にゲスト出演することが多くなり、その中で強烈なビンタを見舞うことが「蝶野ビンタ」として一般人には有名になった。実際の試合でも、対戦相手と大技をお互い出し切り、いわゆる「残っているのはお互いの気持ちだけ」という状態になると張り手を打ち合うシーンがよくみられる。 獲得タイトル [編集] WWA世界ヘビー級王座 : 1回(第2代) アメリカ遠征中の1988年2月26日、ミズーリ州セントジョセフにてマイク・ジョージを破り獲得[3]。 NWA世界ヘビー級王座ベルト掲げる蝶野 NWA世界ヘビー級王座 : 1回(第75代) 第2回G1優勝と共に獲得。日本国外で2度防衛に成功している。1992年9月23日のスティーブ・オースチンとの初防衛戦では、(蝶野曰く「変な」)パイルドライバーを受け、古傷の首を悪化させている(ちなみに数年後、オースチンもオーエン・ハートから同じ技を受け首に爆弾を抱えている)。因みにこのベルト保有期間中、UWFインターから挑戦状を叩き付けられた。 IWGPヘビー級王座 : 1回(第22代) 8度目の挑戦で初獲得。しかし椎間板セキ椎症を理由に王座返上。以降も3度挑戦するも獲得できず。蝶野にとっては相性の悪いベルトとなっている。 IWGPタッグ王座 : 6回(第12・25・28・33・34・43代) 身内の不幸とパートナーの負傷欠場を理由に2度返上をしている。パートナーは武藤敬司→天山広吉で2回→武藤敬司→天山広吉で更に2回獲得。 HCWヘビー級王座 G1 CLIMAX 優勝 : 5回(1991年・1992年・1994年・2002年・2005年) 最多優勝記録である。このことから蝶野のことを「G1男」「夏男」等と呼ばれる。これに関しては別の節で後述する。 SGタッグリーグ優勝 : 1回(1997年) 夏男・蝶野正洋 [編集] 前述の通り、蝶野は新日本プロレスのシングル最強決定戦であるG1 CLIMAXを5度優勝していることから夏男とも呼ばれる。ベビーフェイス時代に3度、ヒールターンしてからは2度優勝を果たしていて、しかも5回中4回がリーグ戦形式による公式戦を勝ち上がっての優勝である。 第1回(1991年)では、優勝決定戦の進出を橋本真也と争い、決勝の相手は武藤敬司であったため、闘魂三銃士の時代の到来を示す重要な大会となった。優勝を決めた瞬間、大量の座布団が投げ込まれた。 第2回(1992年)では、第75代NWA世界ヘビー級王座を賭けたトーナメントで当時隆盛を誇っていたWCW勢が大挙して来日し、決勝ではそのリック・ルードを破っての優勝であった。 第4回(1994年)では、2度もG1に優勝しながら開幕前予想ではダークホースにもあがらなかった蝶野の不満が一気に爆発。優勝決定後に「俺がG1男の蝶野だ、覚えておけ!」とリング上で周囲、マスコミ、ファンに叫び武闘派転向を宣言した。 第12回(2002年)では、高山善廣ら外敵と新日勢という構図となり、決勝戦は高山にケンカキックを10連発で叩き込んで優勝を果たした。 第15回(2005年)では、7月に橋本真也が死去したのを受けて必勝を誓って出場し、公約通りに優勝を果たした。優勝決定後、リング上でのインタビューで橋本真也に優勝の報告をした。決勝戦での入場では、自身の入場テーマのイントロを「爆勝宣言」に差し替えた物を使用して凄まじい歓声を引きだしたが、当の本人は差し替えたのは知らされていなかった。蝶野は「爆勝宣言」が流れた際、「感傷的になってしまったら勝てる試合も勝てなくなる」と思っていた。 CD [編集] THIS IS CHONO METAL(コンピレーション・アルバム、1999年11月10日発売、TOCP-65295) CM出演 [編集] マルちゃんソース焼きそば Wソース(1998年) 産経新聞(1999年) 日本文化センターテレホンショッピング「パワートレーナー」 フジボウ 「B.V.D.」(武藤敬司と共演) サントリー マグナムドライ(すべて声のみの出演) 『頼れる男篇』(2003年2月8日 - ) 『マグナムグルメ篇』(2003年3月1日 - ) 『松井いくぞ篇』(2003年5月15日 - ) 『マグナム友情篇』(2003年5月20日 - ) 『マグナム秘訣篇』(2003年11月1日 - ) 『マグナムクエスチョン篇』(2003年11月1日 - ) 『おつかれ篇』(2004年7月10日 - ) 『みんなで乾杯篇』(2004年6月18日 - ) サントリー -196℃ストロングゼロ<ダブルレモン> 『リングで説教篇』(石原さとみと共演)(2009年2月3日 - ) 『記者会見で説教篇』(石原さとみ、武藤敬司と共演)(2010年2月2日 - ) サントリー ジョッキ生(2009年10月 - ) 商品プロデュース [編集] STF弁当(「サークルK」より出品した。) STFおにぎり(同上) 映画出演 [編集] 監督・ばんざい!(2007年)- 蝶天ラーメン店員A役 大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE(2009年) - 究極生命体レイブラッド星人(声)役 BECK(2010年)- 運転手 役 著書 [編集] 『My bible』ルー出版、1998年、ISBN 4-89778-066-7 『烈闘生 傷だらけの履歴書』幻冬舎 増補改訂版版 1999年4月 共著:橋本真也・武藤敬司・蝶野正洋 ISBN 4-877287-22-1 『Gray zone』蝶野正洋・辻義就 共著、アミューズブックス、1999年、ISBN 4-906613-37-3 『胎動』三沢光晴・蝶野正洋 共著、アミューズブックス、1999年、ISBN 4-906613-43-8 『Chono bible』蝶野正洋 著、瀬古正二 撮影、BOOKMAN-SHA、2002年、ISBN 4-89308-497-6 『白兵武者』蝶野正洋 原案、石渡治 作画、小学館、全12巻 『会社に負けない喧嘩の仕方』ワニブックス、2010年、ISBN 4-84706-510-7 |
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TARU(タル、本名:多留 嘉一(たる よしかず)、1964年8月23日 - )は、日本のプロレスラー。兵庫県神戸市出身。DRAGON GATE退団後は、フリーランスとして活動している。
コンタクトレンズで目つきを鋭くし、強面の顔付きに、上半身にトライバルのタトゥーを施した日本で最初の刺青レスラー。悪役集団VOODOO-MURDERS(以下VM)の首魁として、全日本プロレスを中心に暴れ回る。 目次 [非表示] 1 経歴 2 リングネーム 3 得意技 4 その他 5 外部リンク 経歴 [編集] 元々空手家として活動していたが、1995年の阪神・淡路大震災がきっかけとなりプロレス転向を決意。1996年にWARで武輝道場の一員としてデビューした。その後メキシコへ渡り、闘龍門でブレイク、現地でルードレスラーとして大暴れした。その後しばしばWCWへの遠征も果たしていた大島伸彦(現:CIMA)、諏訪高広(現:SUWA)、藤井達樹(現:ドン・フジイ)と合流し、CRAZY-MAX(以下C-MAX)の一員となった。日本逆上陸後に武輝道場との縁を切る。以後2004年11月の解散まで「C-MAXのマネージャー兼良き兄貴分」という立場になった。団体最重量の彼と最軽量のストーカー市川との“試合”は、団体の迷勝負であった。しかし、C-MAXはライバルチームが結成される度にベビーフェイス色が強くなっていき、TARUも外見とファイトが一致しなくなった。 2004年をもってDRAGON GATEを退団し、フリーランスとなった。全日本プロレスでジョニー・スタンボリー、近藤修司、"brother"YASSHIらとVMを結成、凶器攻撃・罵倒文句の凄まじさなど常軌を逸した行動で王道を脅かす存在になりつつあり、ヒールとして高い評価を得る。新日本プロレス参戦時には、解説を務めた金澤克彦をして「上田馬之助以来の本物のヒール」という評価を得た。 2006年1月8日、全日本プロレスで三冠ヘビー級王座(王者小島聡)に挑戦。 2007年8月26日には小島と組んで世界タッグ王座を奪取、自身初のタイトル獲得となった。11月からの世界最強タッグ決定リーグ戦にゾディアックと組んで参戦。 2007年12月29日、プロレスリング・エルドラド後楽園に登場し、「エルドラドのGM」と名乗り、エルドラドのプロデュースをしていくことを表明。 2008年1月3日、武藤敬司・ジョー・ドーリング組に破れ世界タッグ初防衛に失敗。 2008年3月1日、VMを脱退した諏訪魔とシングルマッチを行なうも敗戦。 2010年2月、対立ユニットF4との解散マッチで、小島から勝利。 同年4月29日、ビッグ・ダディ・ブードゥーとのタッグでアジアタッグ王座を獲得。 同年8月29日、征矢学・真田聖也組に破れアジアタッグ2度目の防衛に失敗。 リングネーム [編集] 多留が用いたことがあるリングネーム 多留嘉一(本名) TARU(現在も使用中) グレート・ルタ(グレート・ムタに対抗して作り出したTARUの化身) TARUちゃんマン(タケちゃんマンを模したキャラクター) TARUティモ・ドラゴン(ウルティモ・ドラゴンを模したキャラクター) 得意技 [編集] TARUドリラー フィニッシュ技。両腕を広げTの字を表し、相手を頭からマットに叩き付ける。かつての師北尾光司の得意技「キタオ・ドリラー」を受け継いだもの。ジャイアント・バーナードの「バーナードライバー」やRO'Z・ジャマールの「サモアンドライバー」と同型である。危険度が高いので、相手が軽量級の場合やキャリアが少ない選手に掛ける場合、相手の頭がリングに直接落ちないよう微妙にコントロールしている。 タルギロチン 仰向けに寝かせた相手にコーナーからダイビングギロチンドロップ。 T-クラッシュ ネックハンギングツリーの体勢に抱え上げ、ライガーボムのように相手をマットに叩きつける技。両手で首を絞めているので、相手は技を受けている間は息ができずダメージも大きい。 ムーンタルト セカンドロープからのムーンサルト。使用頻度は低い。 凶器攻撃 初期の頃は黒い木製のバット(C-MAXのカラーリングとロゴ入り)で相手を殴りつけていた。VM結成以降は正体不明の謎の凶器(078。ホールディングダガーの一種)を相手の顔面に突き刺したり鉄パイプやムチで攻撃したりする。 タルコプター 対ストーカー市川専用技。BTボムの要領で担ぎ上げ、その場でグルグル回って遠心力をつけた市川を投げ飛ばす技。 各種変型体固め 対ストーカー市川戦で用いていた体固め。「和式体固め」「洋式体固め」「洋式体固め(ウォシュレット編)」「心臓マッサージ式体固め」「スキージャンプ式体固め」など様々なバリエーションが存在する。 各種蹴り バックボーンが空手であるため、蹴り技も用する。 その他 [編集] プロレス転向のきっかけとなった阪神・淡路大震災について、「ファイト」のインタビューで震災に遭遇した時の衝撃を語り、「やれることを精一杯やっておこうと思った」(大意)という。そのインタビューが出た当時は既に全日本でヒールを極めていた頃であったが、この話題だけは一人間としてのTARUの正直な言葉として語っていた。 渡辺美里のファンらしい。全日本プロレスの木原文人リングアナと渡辺のライブに行くと「自分場違いっすわ」と強面で渡辺のライブに行くことを恥ずかしがっている。また、元モーニング娘。の加護亜依のファンでもある。 多くのヒールレスラーがそうであるように、リングを降りると非常に紳士的な人物と評されている。だが、ファンがサインを求めると色紙を投げ飛ばすということもする(それだけヒールとして徹底しているという意見もある)。ただし、2006年のVM決起集会では珍しくサインに応じた。 メキシコ時代、女性と度々朝まで遊んでいたのを闘龍門校長であるウルティモ・ドラゴンに「何をしにメキシコまで来た? 遊びに来たの?」と「それとなく」(TARU談)咎められ、再びレスラーとして歩んでいく決心をした。 同じ元DRAGON GATEの近藤やbrother"YASSHI"とVMとして行動を共にしているが、本人はあくまでもフリーランスの立場を貫き、ドラゴンドア及びエルドラドにレギュラー参戦はしていない。本人も専門誌のインタビューで積極的にかかわる意思は今のところはないとしており、2007年8月大会でエルドラドへ初参戦したものの、今後もゲスト出場に留まる模様。 TARU自身が「聖水や」と呼んでいるTARU考案の「TARU水」があり、試合会場で「今なら通常価格15,000円のところ10,000円の出血大サービス中よ」と言葉巧みに販売している。その水の正体は定かでないが、使い古しのペットボトルにマジックで“TARU水”と記入した怪しいものである。また「この夏場は会場内が暑いだろう」というTARUなりの“配慮”により、噴水機で対戦相手や観客に散布した。ある観客に集中的にかける行為も見られる(現在、ブログ内にて24本入り8,400円で販売中)。 フリー選手が主体のイベント「新宿カス野郎プロレス」では毎回主役級で登場している。Vol.2に来場したハヤブサに対して一日も早く復帰できるよう激励の言葉を贈ったり、大ファンである天山広吉とのシングルマッチ(TARU本人には直前まで知らされていなかった)が実現し、いつも通りのマイクパフォーマンスを見せつつも感無量になったりしている。いつもの悪党ぶりがわずかながら影を潜める機会が多い。 TARU自身もマイクを持ち饒舌であるが、brother"YASSHI"のマシンガントークの方がアピールは鋭く、よくbrother"YASSHI"の散々喋った後に「まっそういうこっちゃ」という一言で短く締めることが多い。 TARUの直筆サイン入りカードが、オークションで4万円で落札されたことがあった。 2009年2月15日、YASSHIのプロレス休業後、YASSHIの「カス野郎」を使うようになった。 C-MAXで同じユニットだったCIMA、ドン・フジイはDRAGON GATE離脱を、新潟での試合前に一緒にランニングしている時に本人の口から聞かされたとのこと。 |
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