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バラク・フセイン・オバマ・ジュニア(英語: Barack Hussein Obama, Jr.[2]、1961年8月4日 - )は、アメリカ合衆国の政治家。第44代大統領。上院議員(1期)、イリノイ州上院議員(1期)を歴任する。所属政党は民主党。現職アメリカ合衆国大統領として2009年度ノーベル平和賞を受賞した[3]。
アフリカ系[4]として、史上3人目の民選上院議員(イリノイ州選出、2005年 - 2008年[5])であり、米二大政党から指名を受けた初の大統領候補かつ初の大統領である。また、1960年代以降生まれとして、ハワイ州出身者としても、それぞれ初のアメリカの大統領である。 身長187cm。左利き。 目次 [非表示] 1 経歴 1.1 生い立ち 1.2 インドネシアへ 1.3 ハワイへの帰還 1.4 大学時代 1.5 弁護士時代 1.6 イリノイ州議会議員 1.7 合衆国上院議員 2 大統領候補 2.1 大統領予備選 2.1.1 立候補 2.1.2 予備選前半 2.2 ジェレマイア・ライト 2.2.1 「スーパー・チューズデー」 2.2.2 クリントン陣営の混乱と「失言」 2.3 予備選勝利 2.4 一般投票に向けて 2.5 一般投票勝利、当選 2.6 当選後 3 アメリカ合衆国大統領 3.1 1期目 3.1.1 大統領就任式 3.1.2 混乱する人事 3.1.3 他国との外交 3.1.4 他国への軍事行動 3.1.5 2009年ノーベル平和賞受賞 4 政策 4.1 政権スタッフ 4.2 医療保険制度改革 4.3 環境政策 4.4 安全保障 4.5 核兵器政策 4.6 先住民政策 4.7 オバマによる任命 5 人物 5.1 名前 5.2 演説 5.3 懸念材料 5.4 問題点と疑惑 6 家族 6.1 愛犬 6.2 親戚 6.3 ルーツ 7 エピソード 7.1 喫煙者 7.2 スポーツ 7.3 「オバマを勝手に応援する会」 7.4 専用車 7.5 発言 7.6 アフリカでの評価 7.7 黒人差別 7.8 学校教育 7.9 著作 8 脚注 9 関連項目 10 外部リンク 経歴 [編集] 生い立ち [編集] 1961年8月4日に、ハワイ州ホノルルにある病院[7]で生まれる。実父のバラク・オバマ・シニア(1936年 - 1982年)はケニアのニャンゴマ・コゲロ出身(生まれはニャンザ州ラチュオニョ県Kanyadhiang村[6])のルオ族、母親はカンザス州ウィチタ出身[7][8][9]の白人、アン・ダナム[10]である。父のオバマ・シニアは奨学金を受給していた外国人留学生であった[11][12]。2人はハワイ大学のロシア語の授業で知り合い、1961年2月2日に周囲の反対を押し切って結婚[13]、アンは妊娠しており、半年後にオバマ・ジュニアを出産する。 父オバマ・シニアはムスリム(イスラム教徒)であり、イスラム教の戒律(イスラム法)では「ムスリムの子は自動的にムスリムになる」とされており、イスラム法が適用される国では現在でも脱教は死刑とされているが、オバマ自身は現在プロテスタントのキリスト教徒[14]、キリスト合同教会[15][16]である。オバマは自伝で、「父はムスリムだったが殆ど無宗教に近かった」と述べている。 イスラム法の解釈の仕様によってはオバマ自身はイスラム教徒であるという意見もある。唯一なる神を信じていればそれだけでイスラム教徒の資格を有するという解釈もあるからである。オバマはムスリムの子であり、プロテスタント教会で唯一なる神を信じ、また預言者ムハンマドとその教えを公然と否定もせず、既存のイスラム社会とも敵対せず、アラビア語の名前も名乗り続け、イスラム教徒が多数派の社会であるインドネシアで育っている。そのような状況からオバマはイスラム教徒であると信じる人々は、一定数存在する(なお父オバマ・シニアの出身民族ルオ族は、特にイスラム教徒の比率の高い民族ではない)。 またオバマは自身の幼年期を、「僕の父は、僕の周りの人たちとは全然違う人に見えた。父は真っ黒で、母はミルクのように白く、そのことが、心の中ではわずかに抵抗があった」と回想している[17]。彼は自身のヤングアダルト闘争を、「自身の混血という立場についての社会的認識の調和のため」と表現した[18]。 両親は1963年に別居し、1964年に離婚した[12]。父は1965年にケニアへ帰国し、政府のエコノミストとなる。彼はハワイ大学からハーバード大学を出て将来を嘱望されていた。オバマの両親は結婚歴が複数回あるため、彼は後述の異母妹が1人、異母兄弟が8人[19]いる(うち、4人死没)。1971年に息子と再会し、1982年に自動車事故が原因で亡くなった(46歳)[20]。 なお1967年に母親とともに初来日し、東京に滞在したほか、神奈川県鎌倉市の鎌倉大仏殿高徳院を訪問し、抹茶アイスクリームを食べたと語っている[21]。 インドネシアへ [編集] オバマ・シニアと離婚後に人類学者となった母は、その後ハワイ大学で知り合ったインドネシア人の留学生でのちに地質学者となったロロ・ストロ(Lolo Soetoro。1987年没)と再婚する。 1967年に、ストロの母国であるインドネシアにて、軍事指導者のスハルトによる軍事クーデター(9月30日事件)が勃発すると、留学していた全てのインドネシア人が国に呼び戻されたことで、一家はジャカルタに移住した[22]。オバマ・ジュニアは6歳から10歳までジャカルタの公立のメンテン第1小学校に通った[23]。1970年には、母と継父のあいだに異父妹のマヤ・ストロが誕生する。 ハワイへの帰還 [編集] プナホウ・スクールの旧校舎 1971年、オバマ・ジュニアは母方の祖父母であるスタンリー・ダナム(1992年没)とマデリン・ダナム(2008年没)夫妻と暮らすためにホノルルへ戻り、地元の有名私立小中高一貫のプレパラトリー・スク-ルであるプナホウ・スクールに転入し、1979年に卒業するまで5年生教育を受けた[24]。在学中はバスケットボール部に所属し、高校時代に、飲酒、喫煙、大麻やコカインを使用したと自伝で告白している。 なお1972年に、母のアンがストロと一時的に別居し、実家があるハワイのホノルルへ帰国、1977年まで滞在する。同年、母はオバマ・ジュニアをハワイの両親に預け、人類学者としてフィールドワーカーの仕事をするためにインドネシアに移住し、1994年まで現地に滞在した。このあいだに、1980年にアンと継父のストロとの離婚が成立した。母のアンはハワイに戻り、1995年に卵巣癌で亡くなった[25]。以上のように、青年時代のオバマはハワイにおいて白人の母親と母方の祖父母(ともに白人)によって育てられた。 大学時代 [編集] 1979年に同高校を卒業後、カリフォルニア州ロサンゼルスの私立オクシデンタル単科大学に入学する[26]。2年後、ニューヨーク州のコロンビア大学に編入し、政治学、とくに国際関係論を専攻する[27]。 1983年に同大学を卒業後、ニューヨークで出版社やNPO「ビジネスインターナショナル」社(Business International Corporation)に1年間勤務[28][29]し、その後はニューヨーク パブリック・インタレスト・リサーチグループ(New York Public Interest Research Group)で働いた[30][31]。ニューヨークでの4年間のあと、オバマはイリノイ州シカゴに転居した。オバマは1985年6月から1988年5月まで、教会が主導する地域振興事業(DCP)の管理者として務めた[30][32]。オバマは同地域の事業所の人員を1名から13名に増員させ、年間予算を当初の7万ドルから40万ドルに拡大させるなどの業績を残した。職業訓練事業の支援、大学予備校の教師の事業、オルトゲルトガーデン(en:Altgeld Gardens, Chicago)の設立と居住者の権限の確立に一役買った[33]。 1988年にケニアとヨーロッパを旅行し、ケニア滞在中に実父の親類と初めて対面している。同年秋にハーバード・ロー・スクールに入学する。初年の暮れに「ハーバード・ロー・レビュー」の編集長[34]に、2年目にはプレジデント・オブ・ジャーナルの編集長に選ばれた[35]。 1991年、法務博士(Juris Doctor。日本の法務博士(専門職)に相当)の学位を取得、同ロースクールをmagna cum laudeで修了[36]しシカゴ大学の法学フェローとなる。 弁護士時代 [編集] ハーバード大学ロー・スクールを修了後、シカゴに戻り有権者登録活動(voter registration drive)に関わった後、弁護士として法律事務所に勤務。1992年に、シカゴの弁護士事務所で知り合ったミシェル・ロビンソンと結婚し、1998年にマリア、2001年にサーシャの2人の娘をもうけた。 1995年には、自伝「Dreams from My Father(邦題:『マイ・ドリーム』 出版社: ダイヤモンド社 ISBN 978-4-478-00362-6)」を出版する。またシカゴ大学ロースクール講師として合衆国憲法を1992年から2004年まで講じていた。 イリノイ州議会議員 [編集] 人権派弁護士として頭角を現し、貧困層救済の草の根社会活動を通して1996年にイリノイ州議会上院の議員に選出され2004年1月まで務めた。なお、2000年には連邦議会下院議員選挙に出馬するも、オバマを「黒人らしくない」と批判した他の黒人候補に敗れた。 合衆国上院議員 [編集] 2006年連邦支出金透明化法案提出者として(左から2番目) 2003年1月にアメリカ合衆国上院議員選挙に民主党から出馬を正式表明し、2004年3月に7人が出馬した予備選挙を得票率53%で勝ち抜き同党の指名候補となった。対する共和党指名候補は私生活スキャンダルにより撤退し、急遽別の共和党候補が立つが振るわず、2004年11月には、共和党候補を得票率70%対27%の大差で破り、イリノイ州選出の上院議員に初当選した。アフリカ系上院議員としては史上5人目(選挙で選ばれた上院議員としては史上3人目)であり[37]、この時点で現職アフリカ系上院議員はオバマ以外にいなかった。 2004年のアメリカ大統領選挙では、上院議員のジョン・ケリーを大統領候補として選出した2004年民主党党大会(マサチューセッツ州ボストン)の2日目(7月27日)に基調演説[38][39]を行った。ケニア人の父そしてカンザス州出身の母がハワイで出会い自分が生まれたこと、次いで「全ての人は生まれながらにして平等であり、自由、そして幸福の追求する権利を持つ」という独立宣言を行った国、アメリカ合衆国だからこそ、自分のような人生があり得たのだ、と述べた。そして「リベラルのアメリカも保守のアメリカもなく、ただ“アメリカ合衆国”があるだけだ。ブラックのアメリカもホワイトのアメリカもラティーノのアメリカもエイジアンのアメリカもなく、ただ“アメリカ合衆国”があるだけだ」「イラク戦争に反対した愛国者も、支持した愛国者も、みな同じアメリカに忠誠を誓う“アメリカ人”なのだ」と語り、その模様が広く全米に中継される[40][41]。長年の人種によるコミュニティの分断に加え、2000年大統領選挙の開票やイラク戦争を巡って先鋭化した保守とリベラルの対立を憂慮するアメリカ人によりこの演説は高い評価を受けた。 なお、ケリーのスタッフがオバマを基調演説者に抜擢したのは、オバマがアフリカ系議員であることからマイノリティーの有権者を惹き付けられるであろうこと、若くエネルギッシュで雄弁であること、また当時イリノイ州議会上院議員であったオバマが、同年の大統領選と同時に行われる上院議員選挙における民主党候補(イリノイ州選出)となることが決まっており、党大会の基調演説者としてアピールすることができれば上院議員選挙にも有利に働くであろうと民主党が期待したこと、などの理由からと報じられた[42][43]。2006年には、連邦支出金透明化法案の提出者の1人となっている。 2006年を通して、オバマは外交関係、環境・公共事業、退役軍人の問題に関する上院の委員会に課題を提出した。また2007年1月に、彼は、環境・公共事業委員会を出て、健康、教育、労働、年金、国土安全保障、および政府問題委員会に伴う追加課題を扱った。 また、彼はヨーロッパ問題に関する上院の小委員会の委員長になった。 2008年11月4日に行われたアメリカ大統領選挙で勝利したオバマは、次期大統領として政権移行に向けた準備に専念するため、同月16日、上院議員(イリノイ州選出)を辞任した[44]。後任は、州法の規定によりブラゴジェビッチ・イリノイ州知事(民主党)の指名を受けたローランド・バリスRoland Burrisが就任した。 大統領候補 [編集] 大統領予備選 [編集] 立候補 [編集] スプリングフィールドで立候補宣言を行うオバマ 2004年以降、2008年アメリカ合衆国大統領選挙の候補として推す声が地元イリノイ州の上院議員や新聞などを中心に高まっていった。本人は当初出馬を否定していたが、2006年10月にNBCテレビのインタビューに「出馬を検討する」と発言した。翌2007年1月に、連邦選挙委員会に大統領選出馬へ向けた準備委員会設立届を提出、事実上の出馬表明となった。そして2007年2月10日に、地元選挙区であるイリノイ州の州都のスプリングフィールドにて正式な立候補宣言を行った。 出馬の演説でオバマは「ここ6年間の政府決定や放置されてきた諸問題は、われわれの国を不安定な状態にしている」と述べ医療保険制度や年金制度、大学授業料、石油への依存度を取り組みが必要な課題として挙げ、建国当初のフロンティア精神へ回帰することを呼びかけた。グローバル資本主義には懐疑的であり、アメリカ国内にブルーカラーを中心に大量の失業者を生んだとされ、新自由主義経済政策の象徴である北米自由貿易協定(NAFTA)に反対し、国内労働者の保護を訴えるなど、主な対立候補となったヒラリー・クリントンよりもリベラルな政治姿勢とされた。 予備選前半 [編集] ニューハンプシャー州で遊説を行うオバマ 当初は知名度と資金力に勝る、元ファースト・レディのヒラリー・クリントンの優勢が予想されたものの、大統領予備選の第1弾が行われるアイオワ州の地元紙(電子版)により、予備選直前の2007年12月に行われた世論調査では、オバマの支持率がヒラリーを上回りトップであった。2008年1月3日に行われたアイオワ州党員集会では、保守傾向にある下位の他候補の支持者や20代の若者など幅広い層からの支持を集めて、ヒラリー、ジョン・エドワーズ、ジョセフ・バイデンを初めとするほかの候補者を10ポイント近い大差で破り、オバマが勝利した。 同年1月8日に行われたニューハンプシャー州予備選ではヒラリーに僅差で敗北。しかし本人は「私はまだまだやりますよ」と今後の選挙戦勝利に意欲をのぞかせた。同月26日に行われたサウスカロライナ州予備選で、アフリカ系や若い白人及びヒスパニック層などから圧倒的な支持を受けてヒラリーに圧勝した。CNNでは投票締め切りと同時に「オバマ勝利」と報じるほど他候補を圧倒した。なおこの頃よりエドワーズやバイデンなど他の候補が次々と予備選からの撤退を表明し、事実上ヒラリーとの一騎打ちとなっていく。 ジェレマイア・ライト [編集] ジェレマイア・ライトと談笑するビル・クリントン 選挙の盛り上がりとともに、かつて家族とともに20年間に亘って所属したトリニティー・ユナイテッド教会に関して、長き時を私淑したことで多大な影響を受けていると言われている牧師のジェレマイア・ライトについての論争がしばしば活況を呈した。その過程でライトの人種差別的かつ反政府的とされる様々な説教の内容が取り上げられている[45]。 予備選最中の2008年3月には、オバマとトリニティー・ユナイテッド教会、そしてライトとの決裂が伝えられた。上記のような過激な発言がABCニュースに報道されたのが原因とされている[46][47]。報道直後、オバマはシカゴのアフリカ系アメリカ人社会に対する貢献を挙げてライトを弁護しようとしたが、その後も人種差別的だとされる発言を続けたことを理由にライトと絶縁した[48][49]。その一環として「もっと完璧な連邦(A More Perfect Union)」と題するオバマの演説が人種問題に言及した[50][51][52][53]。 5月25日には、トリニティー・ユナイテッド教会に招かれた神父のマイケル・フレガー[54]が説教中にヒラリーを(アフリカ系アメリカ人に対する)人種差別主義者とみなし、クリントンの泣真似をして喝采を浴びる件があった[55]。オバマはこの件について失望の意を表し、31日に「私は教会を非難しないし、教会を非難させたがる人々にも関心が無い」が、「選挙運動によって教会が関心に晒され過ぎている」として、教会から脱退する[56]。 「スーパー・チューズデー」 [編集] アメリカン大学で遊説を行うオバマ ミネアポリスで遊説を行うヒラリー・クリントン ミネソタ州セントポールで予備選の勝利宣言を行うオバマ なお、ヒラリーとの一騎打ち状態になったことで、その後選挙戦から撤退したエドワーズやバイデンがオバマ支持に回った他、ジョン・F・ケネディ元大統領の娘で、民主党内に一定の影響力を持つとされるキャロラインがニューヨーク・タイムズ紙でオバマに対する支持を表明した。 だが、2月5日に22州で行われた「スーパー・チューズデー」ではオバマが13州を抑えたものの、ヒラリーが大票田のカリフォルニア州や地元のニューヨーク州を抑えるなど、ヒラリーとの決定的差はなかった。しかし、スーパー・チューズデー後はミシシッピ州やワイオミング州、ケンタッキー州とオレゴン州を抑えるなど予備選で9連勝し、一気に指名争いをリードした。 クリントン陣営の混乱と「失言」 [編集] これに対してヒラリー陣営は、2月10日にパティ・ソリス・ドイル選対主任が「選挙戦の長期化」を理由に辞任した(実際は選対内の意見対立が原因とも言われている)ほか、ヒラリー本人が、2月23日にオハイオ州シンシナティで行われた集会で、オバマ陣営が配布した冊子の中でヒラリーが進める国民皆保険計画について「国民に強制的に保険を購入させる内容である」と記載していたことに対して「恥を知れ、バラク・オバマ」と、オバマを呼び捨てで非難した。これに対して多くのマスコミや民主党内からは「理性を失っている」との批判が沸き起こった[57]。 なお、ヒラリーはこのような失点があったにもかかわらず、3月4日には大票田のテキサス州とオハイオ州で勝利をおさめたが、各種調査の結果、「選挙戦において完全に劣勢に立たされた」との評価を受けることが多くなった。この様な状況を受けてヒラリーと、夫で元大統領のビル・クリントンが、「クリントン大統領、オバマ副大統領」の政権構想を民主党内やマスコミに対して一方的に喧伝し始めた。これに対してオバマは「なぜより多くの支持を得ている私が副大統領にならなければいけないのか理解できない」と拒否した。 その後もオバマの優位は揺らぐことはなく、5月には特別代議員数でもヒラリーを逆転した。完全に劣勢に立たされたヒラリーは同月に「(敗北が確実視されているのに)選挙戦を継続する理由」として、かつて大統領候補指名を目指したものの、予備選最中の1968年6月に遊説先のカリフォルニア州ロサンゼルスで暗殺されたロバート・ケネディ元司法長官の例を挙げた。これは「オバマが予備選中に暗殺されること(そしてその結果自分に勝利が転がり込んでくること)を期待している」と受け取られ大きな批判を浴び、その後ヒラリーはケネディの遺族とオバマに対して謝罪した。 但しこの予備選の最中、ノーベル文学賞の英女性作家ドリス・レッシングがキング牧師暗殺事件の例を引き合いに「オバマは暗殺される可能性がある」と発言するなど、米世論でも黒人候補であるオバマが暗殺の危機に晒されていると見られていた事は事実ではある。 いずれにせよヒラリーは謝罪こそ行ったものの、この致命的ともいえる「失言」により、ヒラリーに対する信頼の失墜と劣勢は決定的なものとなった。 予備選勝利 [編集] 同年6月3日に大統領予備選の全日程が終了し、全代議員数の過半数(2118人)を超える2151人の指名獲得を集めたオバマはヒラリーを下し、民主党の大統領候補指名を確定させた。なお、予備選の最中に、2006年に次いでグラミー賞朗読部門賞を受賞している。 一般投票に向けて [編集] 左からオバマ、妻のミシェル、バイデンの妻のジル、バイデン オバマは2008年民主党党大会3日目の同年8月27日、民主党大統領候補の指名を正式に獲得し、副大統領候補に上院外交委員長を務め、予備選で戦ったもののその後オバマへの支持を表明した上院議員のジョセフ・バイデンを指名した。 オバマは民主党党大会最終日の8月28日に、コロラド州デンバーのアメリカンフットボール競技場「インベスコ・フィールド」において、84,000人を前に指名受諾演説を行った。オバマは「次の4年を(ブッシュ政権下の)過去8年と同じにしてはならない」、「未来に向けて行進しよう」と民主党内の結束を呼びかけた。外交問題については「粘り強い直接外交を復活させる」とし、「明確な使命がない限り、戦地に軍を派遣することはない」と表明した。ジョージ・W・ブッシュ政権下で行われたイラク戦争については、「責任を持って終結させる」とした。 オバマは共和党大統領候補として対決するジョン・マケインを、「ブッシュ大統領を90%支持してきた。残り10%に期待するわけにはいかない」と批判した。またオバマは、1963年のちょうどこの日にマーティン・ルーサー・キング・ジュニアが、ワシントン大行進においてアメリカにおける人種差別撤廃への夢について語った演説「I Have a Dream」を踏まえ、「われわれの夢は1つになることができる」と述べた。 同年10月29日のプライムタイムには、全米4大TVネットワークのうちの3つ(CBS、NBC、FOX)およびユニビジョン(ヒスパニック向けのスペイン語ネットワーク)などで30分のテレビCMを全米に放映した。 一般投票勝利、当選 [編集] シカゴ市内のグラント・パークで大統領選勝利を宣言するオバマ 2008年11月4日に全米で行われたアメリカ合衆国大統領選挙(大統領選挙人選出選挙)においてオバマは、地元のイリノイ州や、伝統的に民主党地盤である大票田のニューヨーク州(クリントン元候補の地元)やカリフォルニア州、ペンシルベニア州に加え、過去2回の大統領選で大激戦となったフロリダ州とオハイオ州、さらには長く共和党の牙城とされてきたバージニア州とノースカロライナ州、インディアナ州でも勝利した。 また近年ヒスパニック系住民の増加が顕著な南西部のうちマケインの地元であるアリゾナ州以外の3州(コロラド州、ニューメキシコ州、ネバダ州)でも勝利を積み上げ、選挙人合計365人を獲得[58]してマケイン(173人)を破り、第44代アメリカ合衆国大統領に確定した。一般投票の得票率は52.5%(マケイン46.2%) だった。獲得選挙人数はクリントン(1992年370人、1996年379人)には及ばなかったものの、得票率が50%を越えたのは民主党候補では1976年のジミー・カーター以来だった。 現地時間11月4日午後10時頃、オバマの地元のシカゴ市内中心部のグラント・パークで、約24万人の聴衆が見守る中[59][60]、公園内に備え付けられたスクリーンに「オバマ、大統領に当選」というテロップが流れると、会場は熱気と興奮に包まれる。約1時間後、家族とともに登壇したオバマは、歓声と拍手にどよめく会場で「アメリカに変革が訪れた」と勝利演説を行なった[61][62][63][64][65]。会場の一般観客席では、1984年と1988年の民主党予備選に出馬しアフリカ系アメリカ人初の2大政党大統領予備選有力候補となったジェシー・ジャクソンが感涙にむせぶ姿も映された[66]。 勝利後の11月7日に、大統領就任後の最重点課題として、サブプライム問題が表面化した後の金融危機による信用収縮や、国内の雇用情勢の悪化を阻止するため「必要な全ての手段を取る」と表明し、アメリカ国内における信用収縮の緩和と勤労世帯の支援、経済成長の回復などの経済対策に注力すると表明した。 12月15日に各州とワシントンDCにおいて選挙人による投票が行われ、明けて2009年1月8日の合衆国議会両院合同会議にて、オバマが選挙人票の過半数の365票を得たことが認証され、正式に大統領に選出される。選挙人票が黒人に投じられた例もこれが初めてである。 当選後 [編集] なお、オバマの勝利後、アメリカ国内で銃器の売り上げが一時急増したという。これはオバマや副大統領候補のバイデンが銃規制に前向きであると見られていたからであり、オバマ政権発足後の銃規制強化を懸念した人々からの注文が増加しており、ライフルや自動小銃の売り上げが伸びているという[67]。 オバマの後任の上院議員選出を巡り、イリノイ州知事ロッド・ブラゴジェビッチが候補者に金銭を要求したとの容疑がかけられ、2008年12月9日に連邦捜査局により逮捕され[68]、翌年1月29日にイリノイ州上院の弾劾裁判にて罷免された[69]。 アメリカ合衆国大統領 [編集] 1期目 [編集] 大統領就任式 [編集] 大統領就任宣誓するオバマ ホワイトハウス内で歴代大統領とともに立つオバマ(左からジョージ・H・W・ブッシュ、オバマ、ジョージ・W・ブッシュ、ビル・クリントン、ジミー・カーター) 就任宣誓を行う財務長官のティモシー・フランツ・ガイトナー(右) 就任直後のバラク・オバマ。2009年1月24日(音声つき動画、英語) 2009年1月20日正午(ワシントンD.C.時間)、アメリカ合衆国大統領就任式における宣誓を以てオバマは第44代大統領に正式に就任。オバマは建国以来初めてのアフリカ系アメリカ人(アフリカ系と白人との混血)の大統領、ハワイ州生まれの初の大統領、初の1960年代生まれの、また就任時年齢が5番目に若い大統領[70]となる。 オバマは大統領就任宣誓を予てからの予告通り、エイブラハム・リンカーン第16代大統領が1861年の1期目の就任式で使用した聖書に左手を置いて行なったが、その際にアメリカ合衆国連邦最高裁判所長官のジョン・ロバーツが宣誓文を読み間違えたことを受け(20日の宣誓は法的には有効)、2009年1月21日、ホワイトハウス内にて宣誓をやり直した[71]。 なお「オバマの大統領就任式を見るために、ワシントンD.C.には全米から約200万人を超える観衆が集まったと言われており、史上最高の人数である」と報じられた。 詳細は「バラク・オバマ大統領就任式」を参照 混乱する人事 [編集] 指名された高官らの不祥事 政権発足後、オバマが指名したスタッフらによる不祥事の発覚が相次いだ。財務長官候補のティモシー・フランツ・ガイトナー、保健福祉長官候補のトム・ダシュル、行政監督官候補のナンシー・キルファーに納税漏れが発覚し、加えて支持者からダシュルへのリムジン提供が明るみとなり、上院での指名承認が大幅に遅れる事態となった[72]。この事態を受け、ダシュルとキルファーは指名を相次いで辞退した[72]。批判を浴びたオバマは、ダシュル指名を「大失敗」[72]だったと認めて謝罪した。 また、商務長官候補に至っては、指名者が次々に辞退する異例の事態となった。最初に指名されたビル・リチャードソンは、自身に献金していた企業が捜査対象となったため、連邦議会での承認手続きの前に指名を辞退した[73]。続いて指名されたジャド・アラン・グレッグは、オバマとの政策的な対立が解消せず、同じく指名を辞退した[74]。 また、国家経済会議議長のローレンス・サマーズが、D・E・ショウから顧問料として年間520万ドル超の収入を得ており、さらにリーマン・ブラザーズやシティグループから講演料との名目で年間約277万ドルを受領していたことが、ホワイトハウスによる資産公開にて明らかにされた[75]。 論功行賞に基づく大使人事 大統領選挙中、オバマはブッシュ・ジュニア政権の外交官(特命全権大使)人事に対して「政治利用しすぎる」[76]と強く批判しており、自らが政権を獲った際には「実力を優先する」[76]と断言していた。しかし、実際に大統領の地位に就くと、オバマは前言を翻し縁故や論功に基づく人事を繰り返した。 特命全権大使に指名された者のうち、職業外交官以外が占める割合は、ブッシュ・ジュニア政権では3割程度に過ぎなかったのに対し、オバマ政権では6割を占めている[76]。かつて情実人事で批判を受けたケネディ政権ですら3割に留まっており、過去の歴代政権と比較してその割合は突出している[76]。 さらに、主要国に駐在する大使には、オバマに対し多額の献金を行った支援者らが次々に指名されている[76]。具体例として、駐日本大使のジョン・ルース、駐フランス大使のチャールズ・リブキン、駐イギリス大使のルイス・サスマンらは、いずれもオバマに対し多額の献金を行っていたことが知られており、外交経験がほとんどないにもかかわらず指名された[76]。市民オンブズマン団体「公共市民」の代表者らは「大口献金者を優先する大使人事は相手側諸国への侮辱」[76]に値する行為であると指摘するなど、オバマの論功行賞的な外交官人事は厳しく批判された。 PR |
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