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【2025/05/05 14:17 】 |
グレイ・メイナード
グレイ・メイナード(Gray Maynard、男性、1979年9月5日 - )は、アメリカ合衆国の総合格闘家。アリゾナ州フェニックス出身。エクストリーム・クートゥア所属。
目次 [非表示]
1 来歴
1.1 総合格闘技デビューまで
1.2 The Ultimate Fighter
1.3 UFC
2 戦績
3 脚注
4 関連項目
5 外部リンク
来歴 [編集]

総合格闘技デビューまで [編集]
3歳の時にレスリングを始め、高校時代は全米大会に優勝し、ミシガン州立大学に進学、一時期はラシャド・エヴァンスとルームメイトだった。その後アテネオリンピックを目指していたが、出場は叶わなかった[3]。その後、BJペンにレスリングを指導したことがきっかけとなり、2006年にランディ・クートゥアの元で総合格闘技の練習を開始[2]。同年4月21日にTitle Fighting Championships 1で総合デビューを果たした。
The Ultimate Fighter [編集]
2007年にはUFCのリアリティ番組「The Ultimate Fighter」のシーズン5に参加し、BJペン率いるチーム・ペンに所属。エリミネイションバウトでは1回戦でウェイン・ウィームズ、2回戦でブランドン・メレンデスを破るも、準決勝でネイサン・ディアスにギロチンチョークで敗れた。6月23日のフィナーレではロバート・エマーソンと対戦、エマーソンを投げた際に負傷させてタップさせたが、メイナードもマットに頭を打って気絶し、無効試合となった。
UFC [編集]
2008年4月2日、UFN 13でフランク・エドガーに3-0の判定勝ちを収めた。10月25日、UFC 90でリッチ・クレメンティに3-0の判定勝ちを収めた[4]。
2009年3月7日、UFC 96でジム・ミラーと対戦し、3-0の判定勝ちを収めた[5]。9月16日、UFC Fight Night: Diaz vs. Guillardでロジャー・ウエルタと対戦し、2-1の判定勝ちを収めた[6]。
2010年1月11日、UFC Fight Night: Maynard vs. Diazのメインイベントでネイサン・ディアスと再戦し、僅差の判定勝ちでリベンジに成功した[7]。
2010年8月28日、UFC 118でケニー・フロリアンを相手にテイクダウンとポジショニングで上回り、3-0の判定勝ち[8]。プロ公式戦無敗のままフランク・エドガーの持つライト級王座への挑戦権を手にした[9]。
2011年1月1日、UFC 125のライト級タイトルマッチで王者フランク・エドガーと2年9か月ぶりに再戦。1Rにパンチでダウンを奪ったものの、1-1の判定ドローで王座獲得ならず[10]。大会のファイト・オブ・ザ・ナイトとなった。
戦績 [編集]

総合格闘技 戦績
12 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合
10 勝 2 0 8 0 1 1
0 敗 0 0 0 0
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
△ フランク・エドガー 5分5R終了 判定1-1 UFC 125: Resolution
【UFC世界ライト級タイトルマッチ】 2011年1月1日
○ ケニー・フロリアン 5分3R終了 判定3-0 UFC 118: Edgar vs. Penn 2 2010年8月28日
○ ネイサン・ディアス 5分3R終了 判定2-1 UFC Fight Night: Maynard vs. Diaz 2010年1月11日
○ ロジャー・ウエルタ 5分3R終了 判定2-1 UFC Fight Night: Diaz vs. Guillard 2009年9月16日
○ ジム・ミラー 5分3R終了 判定3-0 UFC 96: Jackson vs. Jardine 2009年3月7日
○ リッチ・クレメンティ 5分3R終了 判定3-0 UFC 90: Silva vs. Cote 2008年10月25日
○ フランク・エドガー 5分3R終了 判定3-0 UFC Fight Night 13 2008年4月2日
○ デニス・シヴァー 5分3R終了 判定3-0 UFC Fight Night 12 2008年1月23日
○ ジョー・ヴェレス 1R 0:09 TKO(左フック) UFC Fight Night 11 2007年9月19日
- ロバート・エマーソン 2R 0:39 無効試合(ダブルノックアウト) The Ultimate Fighter 5 Finale 2007年6月23日
○ ブレント・ウィードマン 5分3R終了 判定3-0 WEF - Orleans Arena 2006年6月10日
○ ジョシュ・パウエル 1R 2:56 TKO(パンチ) Title Fighting Championships 1 2006年4月21日
脚注 [編集]

^ http://boxing.nv.gov/2008%20Results/01-23-08%20MMA.pdf ネバダ州アスレチック・コミッション
^ a b 「グレイ・メイナード リアリティTVショーは、リアルな結果が出るわけじゃない」 『ゴング格闘技』No.195、2008年9月号
^ 【UFN20】計量終了、メイナードがネイトとのリベンジ戦へ MMAPLANET 2010年1月12日
^ 【UFC90】アンデウソン、戸惑いの勝利 MMAPLANET 2008年10月26日
^ 【UFC96】メイナード、盤石の強さでジム・ミラー振り切る MMAPLANET 2009年3月8日
^ 【UFN19】メイナードが8連勝、フエルタは持ち味出ず MMAPLANET 2009年9月17日
^ 【UFN20】メイナードがディアズに勝利も消化不良の内容に MMAPLANET 2010年1月12日
^ 【UFC118】メイナード、フロリアンからテイクダウンを連発 MMAPLANET 2010年8月29日
^ Frankie Edgar vs. Gray Maynard next; UFC boss says contest is marketable MMAjunkie.com 2010年8月29日
^ 【UFC125】エドガーがドロー防衛、メイナードは納得できず MMAPLANET 2011年1月2日
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【2011/01/07 21:24 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
ヴィトー・ミランダ
ヴィトー・"ヴィチーニョ"・ミランダ(Vitor "Vitinho" Miranda、男性、1979年3月10日 - )は、ブラジル出身のキックボクサー、総合格闘家。ノヴァウニオン所属。ビトール・ミランダとも。
目次 [非表示]
1 来歴
2 戦績
2.1 キックボクシング
2.2 総合格闘技
3 関連項目
4 外部リンク
来歴 [編集]

2004年6月26日、K-1 BEAST 2004 in 静岡でグレート草津と対戦し、判定勝ち。
2007年11月2日、K-1 Turkey Grand Prix 2007 in Istanbulのトーナメントにて優勝。
2008年2月9日、K-1 WORLD GP 2008 in BUDAPEST -EUROPE GP FINAL ELIMINATION-にて、ザビット・サメドフと対戦し、判定負け。
戦績 [編集]

キックボクシング [編集]
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
× ゼバット・ポーツラック 3R終了 判定 K-1 Fighting Network 2008 in Vienna 2008年5月17日
× ザビット・サメドフ 3R終了 判定0-2 K-1 WORLD GP 2008 in BUDAPEST
【EUROPE GP 1回戦】 2008年2月9日
○ カール・グリシンスキー 1R TKO(ドクターストップ) K-1 Turkey Grand Prix 2007 in Istanbul
【決勝】 2007年11月2日
○ ゼバット・ポーツラック 3R終了 判定 K-1 Turkey Grand Prix 2007 in Istanbul
【準決勝】 2007年11月2日
○ エルハン・デニス 3R終了 判定2-0 K-1 Turkey Grand Prix 2007 in Istanbul
【準々決勝】 2007年11月2日
○ Guto Inocente 5R終了 判定 Shooto Brazil 3 2007年7月7日
○ Guigao 1R 0:50 KO Demolition V 2007年4月14日
○ Ronaldo Leite 3R 4:17 KO Shooto Brazil 2 2007年3月24日
○ エドアルド・マイオリノ 1R 3:00 KO Floripa Fight 3 2007年3月10日
○ ダニエル・ダニー 1R 2:15 KO Jungle Fight 7 2006年12月17日
○ エドアルド・マイオリノ 2R 1:16 KO Demolition IV 2006年9月23日
○ Cleber Adao 2R 1:43 KO Heavyweight Factory II 2006年3月25日
○ Asmir Burgic 2R 2:38 KO K-1 Brazil Grand Prix 2005 in Sao Paulo
【決勝】 2005年10月22日
○ Lucio Aurelio de Freitas Silva KO K-1 Brazil Grand Prix 2005 in Sao Paulo
【準決勝】 2005年10月22日
○ Nelson Vargas 1R 1:54 KO(パンチ) K-1 Brazil Grand Prix 2005 in Sao Paulo
【準々決勝】 2005年10月22日
× エドアルド・マイオリノ 3R終了 判定0-3 K-1 Brazil Challenge 2004
【決勝】 2004年10月30日
○ デミトリー・ヴァンダレイ 3R 2:39 KO K-1 Brazil Challenge 2004
【準決勝】 2004年10月30日
○ フラビオ・コスタ 1R 1:15 KO K-1 Brazil Challenge 2004
【準々決勝】 2004年10月30日
○ グレート草津 3R終了 判定3-0 K-1 BEAST 2004 in 静岡 〜JAPAN GP 決勝トーナメント〜
【オープニングファイト】 2004年6月26日
× アスエリオ・シウバ 5R終了 判定 Stomp GP 2003年9月13日
× ジェファーソン・"タンク"・シウバ 2R 2:01 KO K-1 BRAZIL GRAND PRIX 2003
【準決勝】 2003年2月23日
× カルロス・リマ 判定0-3 K-1 BRAZIL GRAND PRIX 2003
【準々決勝】 2003年2月23日
総合格闘技 [編集]
総合格闘技 戦績
8 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合
5 勝 4 0 1 0 0 0
3 敗 0 1 2 0
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
× グト・イノセンチ 2R 1:43 ギブアップ(パンチ) Shooto Brazil 17 2010年8月6日
○ Cassio Drummond 1R終了時 TKO(試合放棄) Bitetti Combat 7 2010年5月28日
× ファビオ・マウドナド 5分3R終了 判定0-3 Bitetti Combat Nordeste 4 2009年9月12日
○ ヘナート・マトス 1R 0:15 TKO(膝蹴り) Shooto Brazil 11 2009年3月28日
○ グスタヴォ・モイア 1R 1:44 KO(膝蹴り) Shooto Brazil 9 2008年11月29日
○ シドニー・ダ・シウヴァ 2R 0:45 KO(ハイキック) Shooto Brazil 8 2008年8月30日
× ファビオ・マウドナド 5分3R終了 判定 Mo Team League 2 2007年9月29日
○ ヒヴァニウド・ヒーヴァ 5分3R終了 判定3-0 K-1 Brazil - New Stars 2003年11月27日
【2011/01/06 22:15 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
├─≠ョ─ヵラスとトレント・アシッド
├─≠ョ─ヵラス 日本流
├─≠ョ─ヵラス









├─≠ョ─ヵラス 日本を舞台に数多のプロレス経験を積んできたアシッドは、それを自身のプロレスラーとしてのアイデンティティと見做していたようで、自らを『日本流レスラー』(Japanese style wrestler)と評し、更には自身のことを『日本人スーパースター』であると語っていた
【2011/01/06 20:08 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
ドリー・ファンク・シニア
ドリー・ファンク・シニア(Dory Funk, Sr.、1919年5月4日 - 1973年6月3日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー兼プロモーター。プロレスのマネージャーとしても活躍した。
本名はドランス・ウィルヘルム・ファンク(Dorrance Wilhelm Funk)。インディアナ州ハモンド出身。
息子のドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンクも著名なプロレスラーである。
目次 [非表示]
1 来歴
2 人物
3 得意技
4 関連項目
5 外部リンク
来歴 [編集]

少年時代はアメリカンフットボールをはじめ万能アスリートとして活躍。第二次世界大戦後、プロレスラーとしてデビュー。1949年にテキサス州アマリロに本拠地を移す。当初はドリー・ファンク(Dory Funk)のリングネームでザ・シーク等と対戦しているが、悪役レスラーとして活動していたらしい。また、一時期マスクド・マーヴェル(Masked Marvel)という覆面レスラーとしても活動している。
梶原一騎原作の漫画「プロレススーパースター列伝」では最初プロボクサーを目指していたと描かれているが、ボクシング経験はなく空手の道場に通っていたことを初来日の際に、スポーツ紙に語っている。
現役時代は1958年にNWA世界ジュニアヘビー級王座を獲得するなど活躍したが、アマリロに本拠を構えて二人の息子に幼少の頃から英才教育を施しトップレスラーに育て上げたことにより名声は一気に高まり、息子のドリー・ファンク・ジュニアと区別する為ドリー・ファンク・シニアとして活動するようになる。
その後、ドリー・ファンク・ジュニアが1969年2月にNWA世界ヘビー級王座を獲得(テリー・ファンクもシニアの死後1975年に獲得)したことによりプロレス界で一目置かれる存在となり、南部地区のプロモーターとしても活躍。アマリロ地区を一代で有力テリトリーに育て上げた。NWA内部でも実力者として知られ、死去する直前の1973年2月にはNWA臨時総会を開催させてジャイアント馬場の加盟を(一つの地区からの加盟プロモーターは原則一人だったにもかかわらず)押し込んでいる。この件などのドリー・ファンク・シニアの恩義を馬場は長く忘れず、社長室の机にはシニアの写真が置いてあったという。
1969年11月に日本プロレスに参戦するため来日したドリー・ファンク・ジュニアのマネージャーとして同行し初来日。1972年10月に来日した時は、全日本プロレス旗揚げシリーズにレスラーとして参戦している。アマリロには多くの若手レスラーが集い、「ファンクス一家」の長として確固たる地位を築いたが、1973年6月3日にパーティー中に余興でレスリングをしていて心臓発作で急死。なお、このパーティーにはアメリカ武者修行中のジャンボ鶴田(当時は鶴田友美)も居合わせていたという。
人物 [編集]

現役時代はヒールとして知られていたが社会人としては非常に常識はしっかりしていたと言う。スカウトされた、スタン・ハンセンによると現職の中学校教員を辞めてプロレスラーに転職する際も「せめて1学期までは(教員を)続けなさい。でないと周り(学校)が迷惑する。」と忠告した。その忠告通りにしたハンセンは学校側からも代わりをみつけられる時間が出来て助かったと感謝されたと言う。
得意技 [編集]

スピニング・トーホールド(この技は二人の息子に伝授され、ファンクス・ファミリーの代名詞的な技となった)
ブルドッギング・ヘッドロック
ボディスラム
エアプレーン・スピン
関連項目 [編集]

ザ・ファンクス
タイガーマスク(漫画版の終盤ではシニアを含めたファンクス・ファミリーが描かれている)
プロレススーパースター列伝(ファンクス篇のタイトルは「父の執念」となっている)
アマリロ
【2011/01/06 20:06 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
トージョー・ヤマモト
トージョー・ヤマモト(Tojo Yamamoto、1927年 - 1992年2月19日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。本名はハロルド・ワタナベ(Harold Watanabe)、通称ハリー・ワタナベ(Harry Watanabe)。ハワイ州出身の日系アメリカ人。
アメリカでは晩年までテネシー州メンフィス(NWAミッドアメリカ / CWA / USWA)を主戦場に、マネージャーやトレーナーとしても活躍した。
目次 [非表示]
1 来歴
2 得意技
3 獲得タイトル
4 脚注
5 外部リンク
来歴 [編集]

第二次世界大戦後、アメリカ軍のMPとして日本に駐留。退役後にハワイでP・Y・チャン(P.Y. Chung)のリングネームでデビューし、1955年7月に全日本プロレス協会に来日、山口利夫に挑戦した[1]。
その後、旧日本軍の陸軍大将・東條英機と海軍大将・山本五十六からリングネームを拝借し、トージョー・ヤマモト(Tojo Yamamoto)と改名。法被と竹刀、膝下までのロングタイツ(通称「田吾作タイツ」)に高下駄を履き、グレート東郷スタイルの日系ヒールとなって南部エリアで活動する。1961年11月にはNWAフロリダ地区で日本人レスラーのタロー三宅と組み、エディ・グラハム&ディック・スタインボーンからUSタッグ王座を奪取した[2]。
1963年より、ニック・グラスの主宰するテネシー州メンフィスのNWAミッドアメリカ地区に定着。1966年10月には海外武者修行中だった上田馬之助(プロフェッサー・イトー)をパートナーに[3]、同地区認定のNWA世界タッグ王座を獲得している[4]。以降、試合スタイルが荒っぽいことから「無法地帯」と呼ばれたテネシーにおいて[5]、ジェリー・ローラーやビル・ダンディー、ジプシー・ジョー、モンゴリアン・ストンパーなどを相手に流血の喧嘩試合を繰り広げた。
1980年代に入り、ジェリー・ジャレット(後のTNA創設者)とジェリー・ローラーのCWAがニック・グラスのプロモーションを吸収してからは、同団体にてヒールのマネージャーも担当。全日本プロレスからアメリカ武者修行に来ていた若手時代の大仁田厚(ミスター・オーニタ)と渕正信(マサ・フチ)も1981年に担当し[6]、彼らにAWA南部タッグ王座を奪取させ[7]、ロックンロール・エクスプレス、オースチン・アイドル、ココ・ウェア、エディ・ギルバートらとの抗争を指揮した。
以降もCWAおよび後継団体のUSWAにて活動を続け、晩年の1989年には新日本プロレスの若手だった橋本真也(ショーグン・マサムネ)と笹崎伸司(サムライ・シンジ)のマネージャーも務めた[8]。
1991年に腎臓病と糖尿病を患い引退[9]。1992年2月19日、テネシー州ナッシュビルの自宅にてピストル自殺した[1][9]。64歳没。
トレーナーとして選手の育成も手掛け、古くはジャッキー・ファーゴをコーチしたほか、トミー・リッチ、ボビー・イートン、ジェフ・ジャレット、シッド・ビシャスなどがヤマモトの指導のもとデビューしている。
得意技 [編集]

ストマック・クロー
ショルダー・クロー
ジュードー・チョップ
下駄攻撃
塩攻撃
獲得タイトル [編集]

NWAミッドアメリカ / CWA
NWA南部ジュニアヘビー級王座(ミッドアメリカ版):1回
NWA南部タッグ王座(ミッドアメリカ版):23回(w / イワン・マレンコフ、アレックス・ペレス×6、ミツ・ヒライ×2、トーア・カマタ、グレート・ヒガミ、ジョニー・ロング×2、ジョニー・ウォーカー、ジェリー・ジャレット×5、ジェリー・ローラー×2、エディ・マーリン、ジミー・ゴールデン)
NWA世界タッグ王座(ミッドアメリカ版):8回(w / アレックス・ペレス、ミツ・ヒライ、タマヤ・ソト、プロフェッサー・イトー、ジョニー・ロング×3、ベン・ジャスティス)
NWAミッドアメリカ・ヘビー級王座:2回
NWAミッドアメリカ・タッグ王座:12回(w / ビル・ドロモ×2、トミー・ギルバート、ジャッキー・ファーゴ×2、ジョニー・マーリン、ジョージ・グラス×2、ジプシー・ジョー×3、グレート・トーゴー)
NWA6人タッグ王座(ミッドアメリカ版):7回(w / ジョージ・グラス&デニス・ホール、ジョージ・グラス&トミー・リッチ×2、ジプシー・ジョー&ザ・ビースト、デニス・コンドリー&クリス・コルト、デビッド・シュルツ&グレート・トーゴー、ボビー・イートン&ザ・シークレット・ウェポン)
NWA USタッグ王座(ミッドアメリカ版):1回(w / トミー・リッチ)
AWA南部タッグ王座:1回(w / ウェイン・ファリス)
CWA世界タッグ王座:1回(w / ジェリー・ジャレット)
その他
NWA USタッグ王座(フロリダ版):1回(w / タロー三宅)
NWAサウスイースタン・タッグ王座:1回(w / ミスター・カミカゼ)
NWAテネシー・タッグ王座:1回(w / ジェリー・ジャレット) ※アラバマ地区(サウスイースタン・チャンピオンシップ・レスリング)のタイトル
ICW USタッグ王座:1回(w / ジプシー・ジョー) ※アンジェロ・ポッフォ(ランディ・サベージの父親)が興した団体のタイトル
【2011/01/06 20:05 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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