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【2025/05/05 18:28 】 |
テリー・ゴディ
テリー・ゴディ[1](Terry "Bam Bam" Gordy、1961年4月23日 - 2001年7月16日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。テネシー州チャタヌーガ出身。本名はテリー・レイ・ゴディ(Terry Ray Gordy)。日本では「人間魚雷」の異名を持つ。
甥のリチャード・スリンガー、息子のレイ・ゴディもプロレスラーである。パワーボムの元祖であり、この技を日本に定着させた。
目次 [非表示]
1 来歴
2 得意技
3 獲得タイトル
4 脚注
5 関連項目
6 外部リンク
来歴 [編集]

生まれついての巨漢で、ほとんど訓練もしないまま年齢をごまかし14歳でプロレス入りしたとされ、1977年にテリー・メッカ(Terry Mecca)のリングネームでデビュー。1年後、地元テネシーで出会った2歳年上のマイケル・ヘイズ(現・WWEエージェント)と出会って意気投合し、翌1979年にテリー・ゴディと改名、タッグチーム「ファビュラス・フリーバーズ」を結成する。この名前は彼らが好きだったサザン・ロックのバンド、レーナード・スキナードのヒット曲『FREE BIRD』から取ったもので、入場曲も同曲である。なお、これがアメリカマット界で本格的に入場曲が使われるようになったきっかけといわれる。
以降、ヒールのタッグチームとしてテキサス州ダラスを中心に全米で活躍。1982年からはバディ・ロバーツを加えて3人組となり、ダラスの英雄フォン・エリック兄弟(ケビン、デビッド、ケリー)との抗争は凄まじい人気を得た。ヘイズとは1981年にジョージア地区のGCWで一時的に仲間割れし、ゴディはジミー・スヌーカを、ヘイズはテッド・デビアスを新パートナーに抗争を展開したこともある。
1983年8月に全日本プロレスに初来日。日本でのテリー・ファンク引退試合でのザ・ファンクスの対戦相手として、スタン・ハンセンのパートナーに起用された(テリー・ファンクは後に現役復帰)。翌年にはフリーバーズでの来日も実現したが、ゴディのみ全日本の常連となる。デビュー間もない頃に教えを受けたルー・テーズ直伝のパワーボムをフィニッシュ・ホールドとして頭角を現す。テリー・ゴディのパワーボムは技を決めた後に、そのままフォールの体勢に持ち込むのが特徴で、それ以降多くの日本のレスラー達が使うようになった。1988年にはスタン・ハンセンとのタッグで世界タッグ王座を獲得。また同年の世界最強タッグ決定リーグ戦を制覇した。1990年3月「殺人医師」ことスティーブ・ウィリアムスとタッグチーム「殺人魚雷」を組み、世界最強タッグ決定リーグ戦を1990年、1991年と二連覇する等活躍した。シングルでも1990年6月5日にジャンボ鶴田から三冠ヘビー級王座を奪取している。意外にも外国人で三冠王者になった第一号は、ハンセンではなくゴディである。この時29歳だったが、20代の三冠王者はゴディと小橋建太の二人だけである。既に世界タッグ王者でもあったため、史上初の五冠王だった。また、全日本のリングに上がる前年の1982年3月1日にジャイアント馬場のPWFヘビー級王座にジョージア州アトランタで挑戦しており、日本にもその試合が中継されている。
1984年8月にはフリーバーズとしてWWF(現・WWE)にも加入。シンディ・ローパーとのコラボレーションも実現したが、メンバー個々をシングルプレイヤーとして売り出そうとしたWWFに反発して2週間で離脱。その後、フリーバーズはダラスのWCCWを主戦場にAWAやUWF(ビル・ワット主宰)などにも参戦するが、1988年に一旦解散した。
1992年にスティーブ・ウィリアムスと共にWCW入りし、スコット・スタイナー、リック・スタイナーのスタイナー兄弟と抗争する。WCWは当時新日本プロレスと提携し、スタイナー兄弟は新日にも登場したがゴディ、ウィリアムズは全日本との契約は終了していたものの、全日本との関係を重視して登場しなかった。なお、ウィリアムスはゴディとのタッグの経験から試合展開の技術についていろいろと学ぶところがあったという。
1993年8月、全日本のシリーズを欠場。内臓疾患ということになっていたが、実際は一度、全日本参戦中に心停止したことがあり、病院に担ぎ込まれたというのが真相である(以下のエピソード含め、和田京平の著書『人生は3つ数えてちょうどいい』より。医者からは「ご家族を呼んでください」と言われたものの、突然起き上がって「帰る」などと言い出し、周囲の人間が仰天したというエピソードがある)。1年後の1994年7月、サマーアクションシリーズ中盤より全日本マットに復帰したものの全盛期の動きには程遠く、これが最後の全日本への来日となった。
その後1995年、IWA・JAPANに参戦。画鋲デスマッチ等を行った。1996年には覆面レスラーのジ・エクスキューショナー(The Executioner)としてWWFに登場。マンカインドと怪奇派のタッグチームを結成し、短期間ながらジ・アンダーテイカーと抗争した。1998年にはWARに登場。かつての三冠戦カードである天龍源一郎とのシングル戦が実現した。
ゴディは非常に強い痛み止めの薬を飲んでいたが、元来の酒豪であり(主にジャックダニエルを愛飲)、それとチャンポンしていたという。現在で言うステロイド剤の副作用もあり、精神的にも異常な行動が見えたことからそれが原因で全日本には呼ばれなくなったというのが真相である。IWA・JAPANに参戦時には、控え室で尿を垂れ流していたなどの行動も見られたという。持病の心臓病が悪化し、2001年7月16日にテネシー州チャタヌガの自宅で心不全で急死。40歳没。
最後の来日は同年2月4日のIWA横浜文化体育館大会。死の直前に、プロレスリング・ノアを発足させた三沢光晴と旧交を温める様子がプロレスマスコミに流れたが、本人がノアに上がることはなく、一時息子のレイ・ゴディがノアに参戦するにとどまった。ジャンボ鶴田が苦手意識を持った数少ないトップレスラーで、1990年代前半にはプロレス四天王の大きな壁として立ちふさがった名レスラーであったことから、体調管理の甘さが悔やまれる。
得意技 [編集]

大型レスラーだが抜群のセンスと動きのよさも兼ね備えており、技の引き出しが多い。投げ技が比較的少ないのが特徴。
パワーボム
ルー・テーズ直伝、ゴディの代名詞的必殺技。投げっ放しではなく、叩き付けてホールドしたままエビ固めで体重を乗せてピンフォールした。
魚雷ラリアット
いわゆる「串刺しラリアット」で、この技の創始者。逃げ場のないコーナーの相手に向かって、全体重を浴びせかけるようにラリアットをブチ込み、仰け反って反動で前のめりになった相手を掴んでマットにねじ伏せ、フォールに行くという一連の動きがスピードとパワーに満ちあふれていた。相手をコーナーにホイップしたらすかさず追いかけるように突進し、ラリアットをかわされないようにするのが特徴。対角線のコーナーを利用して、ラリアットを打ち込んだ相手をすぐさま対角線に振って魚雷ラリアットを続け、何往復かする連発式も使用した。(後にスーパー・ストロング・マシンも同様のラリアットを「追っかけラリアット」として使用している)。
この他、通常のラリアットも得意としており、ジャイアント馬場からフォールを奪っている(通常のラリアットも「魚雷ラリアット」と呼ぶこともある)。
DDT
この技でジャンボ鶴田から三冠王座を奪取したこともある秘密兵器。
サソリ固め
ドロップキック
巨体ながらもハンセン、ブロディ同様に隠れた名手。
片足を掴んでの浴びせ倒し
相手の片足を抱え込んで、そのまま体重を浴びせながら押し倒し、フォールする強引な荒技。これで川田利明から勝利を奪った試合では、若林健治アナウンサーは「こんなの技じゃない!」と驚きながら実況していた。
STF
晩年に得意とし、フィニッシュ・ホールドにも使用していた。これもルー・テーズ直伝。
フィッシャーマンズ・スープレックス
柔軟性もあり好んでこの技を使用した。
獲得タイトル [編集]

全日本プロレス
三冠ヘビー級王座:2回
世界タッグ王座:7回(w / スタン・ハンセン×2、スティーブ・ウィリアムス×5)
ミッドアメリカ(テネシー)
NWAミッドアメリカ・タッグ王座:2回(w / マイケル・ヘイズ)
MSWA / UWF
ミッドサウス・タッグ王座:2回(w / マイケル・ヘイズ×1、バディ・ロバーツ×1)
ミッドサウス・ルイジアナ・ヘビー級王座:1回
ミッドサウス・ミシシッピ・ヘビー級王座:1回
UWF世界ヘビー級王座:1回
GCW(ジョージア)
NWAジョージア・タッグ王座:1回(w / マイケル・ヘイズ)
NWAナショナル・タッグ王座:4回(w / マイケル・ヘイズ×3、ジミー・スヌーカ×1)
SECW(アラバマ)
NWAアラバマ・ヘビー級王座:1回
NWAサウスイースタン・ヘビー級王座:1回
WCCW / WCWA(ダラス)
NWAアメリカン・ヘビー級王座:1回
NWAアメリカン・タッグ王座:1回(w / マイケル・ヘイズ)
NWAブラスナックル王座(テキサス版):1回
NWA世界6人タッグ王座(テキサス版):5回(w / マイケル・ヘイズ&バディ・ロバーツ)
WCWA世界6人タッグ王座:1回(w / バディ・ロバーツ&アイスマン・パーソンズ)
WCW
NWA世界タッグ王座:1回(w / スティーブ・ウィリアムス)
WCW世界タッグ王座:1回(w / スティーブ・ウィリアムス)
その他
GWFタッグ王座:1回(w / ジミー・ガービン)
SMWヘビー級王座:1回
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【2011/01/06 20:05 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
ニコライ・ボルコフ
ニコライ・ボルコフ(Nikolai Volkoff)のリングネームで知られるヨシップ・ペルゾビッチ(Josip Nikolai Peruzović、1947年10月14日 - )は、クロアチア出身の元プロレスラー。北米に移民後、ロシア系ギミックのパワーファイターとして活躍した。
※日本では「ニコリ・ボルコフ」と表記されていたが、正しい発音はニコライであり、本項の記述もそれに準じる。
目次 [非表示]
1 来歴
2 エピソード
3 得意技
4 獲得タイトル
5 脚注
6 外部リンク
来歴 [編集]

ユーゴスラビア併合後のクロアチア共和国の出身で、父親はイタリア系クロアチア人、母親はロシア人である。ユーゴではウェイトリフティングの選手として活躍し、オーストリアで行われたトーナメントに参加した際にカナダへ越境。カナダではカルガリーのスタンピード・レスリングでスチュ・ハートのトレーニングを受け、同地区にいたニュートン・タットリー(ジート・モンゴル)のパートナーとしてデビュー。モンゴル人ギミックのベポ・モンゴル(Bepo Mongol)を名乗り、ジートとの悪役タッグチーム「ザ・モンゴルズ」を結成してアメリカに進出した。
1970年6月15日にはニューヨークのWWWF(現・WWE)で ビクター・リベラ&トニー・マリノを破り、WWF世界タッグ王座の前身であるWWWFインターナショナル・タッグ王座を獲得[1]。1972年7月にはザ・モンゴルズとして日本プロレスに初来日し、坂口征二のUNヘビー級王座に挑戦している。
その後、ジートとのタッグを解消してシングルプレイヤーに転向(モンゴルズの後任には、後にマスクド・スーパースターやデモリッション・アックスとして活躍するビル・イーディーがボロ・モンゴルを名乗って加入した)。1974年、フレッド・ブラッシーを マネージャーにロシア人ギミックの大型ヒール「ニコライ・ボルコフ」に変身して再度WWWFに登場し、MSGでブルーノ・サンマルチノのWWWF世界ヘビー級王座に挑戦して脚光を浴びた[2]。
同年8月にはブラッシーと共に新日本プロレスに来日、タッグマッチでアントニオ猪木からフォール勝ちを収めている。以降も新日本の常連外国人となり、1977年のワールド・リーグ戦ではマスクド・スーパースターとの新旧モンゴルズ対決も実現。1978年の第1回MSGシリーズでは決勝リーグに進出し、アンドレ・ザ・ジャイアントとも対戦した。1979年4月17日には、ペンシルベニア州アレンタウンで猪木のNWFヘビー級王座にも挑戦している[3]。
本国アメリカでは1975年にボリス・ブレジニコフ(Boris Breznikoff)のリングネームでボビー・ヒーナンをマネージャーにAWAに参戦。翌年WWWFにカムバックしてサンマルチノに再挑戦した後はNWA圏を転戦。ジム・バーネットの主宰するジョージア・チャンピオンシップ・レスリングではブルート・バーナードとのタッグチームで活躍し、デトロイトではザ・シークとも対戦している。
西側諸国のモスクワオリンピックボイコット問題で米ソ冷戦が最高潮に達した1980年には、エディ・グラハムが運営するフロリダのCWFでイワン・コロフとロシア人タッグを結成。ジャック・ブリスコとジェリー・ブリスコの兄弟チームからフロリダ・タッグ王座を奪取して大ヒールとなる[4]。後にアレックス・スミルノフやバロン・フォン・ラシクも加わり、反米軍団を形成してダスティ・ローデス、ディック・マードック、バグジー・マグロー、ブリスコ・ブラザーズらと抗争を展開した[5]。1981年の後半からはジム・クロケット・ジュニア主宰のNWAミッドアトランティック地区に参戦。同じくロシア系ギミックのクリス・マルコフとのコンビで同地区認定のタッグ王座を獲得した[6]。
1982年1月には全日本プロレスの「新春ジャイアント・シリーズ」に来日。ニック・ボックウィンクルと組んでジャイアント馬場とジャンボ鶴田のインターナショナル・タッグ王座にも挑戦した。同シリーズには前年末に全日本に引き抜かれたスタン・ハンセンも初参戦しており、1976年に共にWWWF圏をサーキットしたことのあるボルコフがハンセンのパートナー役を務めた。以降は日本での主戦場を全日本に移し、1982年10月9日には同じくWWWF時代の盟友であるブルーザー・ブロディとのコンビでインタータッグに再挑戦。1983年5月19日には鶴田のUNヘビー級王座に挑戦し、敗れはしたものの鶴田を片腕でネック・ハンギング・ツリーに吊るし上げるなど、桁外れのパワー殺法を披露した。
帰国後はビル・ワットが主宰するMSWAに登場。クラッシャー・クルスチェフとのタッグでルイジアナ、ミシシッピ、オクラホマなどミッドサウス一帯をサーキットした。
そして1984年、ビンス・マクマホン・ジュニアの新体制下で全米進出を行っていたWWFと再契約。再びブラッシーをマネージャーにハルク・ホーガンのWWF世界王座に挑戦する一方、サージェント・スローターとの米ソ抗争を開始。スローターのWWF離脱後はアイアン・シークとの反米コンビでタッグ戦線に進出、1985年のレッスルマニア第1回大会でバリー・ウインダムとマイク・ロトンドのUSエクスプレスを破り、WWF世界タッグ王座を獲得した[7]。その後も長きに渡ってWWFを主戦場とし、リング上でソビエト連邦国歌を斉唱するなどして観客を大いにヒートさせた。
シークがドラッグ問題で解雇されてからはボリス・ズーコフを相棒にザ・ボルシェビクス(The Bolsheviks)なる共産タッグを結成。しかし1990年、ソビエト連邦の崩壊による冷戦終結を機にベビーフェイスに転向する。一転して親米派になり、愛国者キャラクターとして抜群の会場人気を持つハクソー・ジム・ドゥガンのパートナーを務めた。同年、湾岸戦争の勃発によりヒールとしてWWFに復帰したサージェント・スローターとの善悪逆転抗争もスタートさせている。
1992年にWWFを離れた後はインディー団体に上がっていたが、1994年に「ロシア難民」のギミックでWWFに復帰。テッド・デビアスに金で買われた「所有物」として、デビアス率いる「ミリオンダラー・コーポレーション」に組み入れられるが、すでに体力的に全盛期を過ぎていたこともあり、短期間でフェードアウトしていった。
その後は2001年のレッスルマニアX-Sevenで行われたギミック・バトルロイヤルに出場。2005年には長年に渡る功績を称え、WWE Hall of Fameに迎えられた。近年もスペシャルゲストとして、WWEをはじめ各地のインディー団体に顔を見せている。2010年11月15日には、"Old School edition" と銘打って行われたスペシャル版のWWE Rawに出演[8]、ウラジミール・コズロフと共にリング上でソビエト連邦国歌を斉唱した[9]。
エピソード [編集]



Nikolai in October 17, 2009
WWWFで共産主義者のロシア人としてシングル・デビューしたボルコフだが、ユーゴスラビア移民である本人は共産主義を嫌悪していた。しかし、マネージャーのフレッド・ブラッシーに「共産主義がいかに悪であるかをリング上で演じて、アメリカ人に教えてやればいい」などと諭され、このギミックを受け入れたという[10]。
観客の憎悪を買った大ヒールだった反面、素顔は温厚な好人物として知られ、デビュー当時も子供を養うために倹約するなど、家族を大切にしていた[10]。それは他人の家族に対しても同じで、ブラッシーの娘が何年間も離れ離れだった父親に会いに来た際、彼女に電話をするようにブラッシーを促したこともあったという。ブラッシーは自著で「私はニコライのしてくれたことを忘れない」と記している[11]。
ダイナマイト・キッドもボルコフの人柄を称えている。キッドの自著には、ブリティッシュ・ブルドッグスのマスコット犬だったマティルダが水を欲しがっているのを見て、可哀想に思ったボルコフが彼女に水を飲ませてあげたエピソードが書かれている。しかし飲ませすぎたため、当日の試合中にマティルダが脱糞。会場は爆笑に包まれ、キッドたちは大恥をかいたという[12]。
キン肉マンに登場するソ連出身のロボ超人、ウォーズマンの本名の由来である。
得意技 [編集]

ベアハッグ
ワンハンド・ネック・ハンギング・ツリー
ハイアングル・バックブリーカー - 頭上まで相手を持ち上げ、そのまま落下させて相手の背骨を自分の膝に叩きつけてシュミット式バックブリーカーに仕留める怪力技。ハルク・ホーガンの巨体を軽々とリフトアップしたこともある。
獲得タイトル [編集]

WWE
WWWFインターナショナル・タッグ王座:2回(w / ジート・モンゴル)
WWF世界タッグ王座:1回(w / アイアン・シーク)
WWE Hall of Fame:2005年度(プレゼンターはジム・ロス)
NWA
NWAジョージア・ヘビー級王座:1回
NWAフロリダ・タッグ王座:1回(w / イワン・コロフ)
NWAミッドアトランティック・タッグ王座:1回(w / クリス・マルコフ)
MSWA
ミッドサウス北米ヘビー級王座:1回
【2011/01/05 02:06 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
ニキタ・コロフ
ニキタ・コロフ("The Russian Nightmare" Nikita Koloff)のリングネームで知られるネルソン・スコット・シンプソン(Nelson Scott Simpson 、1959年3月9日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。ミネソタ州ミネアポリス出身(ギミック上の出身地はロシア共和国・モスクワ)。
1980年代後半を全盛期に、ロシア人ギミックの大型ラフ&パワーファイターとしてNWAミッドアトランティック地区(ジム・クロケット・プロモーションズ)を主戦場に活動。当初はヒール、後にベビーフェイスとなって活躍した。
目次 [非表示]
1 来歴
2 得意技
3 獲得タイトル
4 脚注
5 外部リンク
来歴 [編集]

学生時代はアメリカンフットボールで活躍しUSFLのトライアウトを受けるが、同郷の友人ロード・ウォリアー・アニマルに誘われてプロレス入り[1]。NWAジョージア地区を経て、1984年にイワン・コロフの「甥」のニキタ・コロフ(Nikita Koloff)としてNWAミッドアトランティック地区のジム・クロケット・プロモーションズに登場、イワンとのコンビでロード・ウォリアーズと抗争を開始した。
1985年からはクラッシャー・クルスチェフもメンバーに加わり、ザ・ラシアンズ(The Russians)を結成してウォリアーズやロックンロール・エクスプレスとNWA世界タッグ王座を争う[2]。同年7月6日のグレート・アメリカン・バッシュ(第1回大会)では、リック・フレアーのNWA世界ヘビー級王座に挑戦した。
1986年1月にはクルスチェフと共に全日本プロレスに初来日(10月にも再来日)。同年はシングル・プレイヤーとしての活動に比重を置き、マグナムT.A.とNWA USヘビー級王座を巡る遺恨試合を繰り広げた[3]。9月28日には、ジョージア地区のタイトルだったNWAナショナル・ヘビー級王座をワフー・マクダニエルから奪取している[4]。
ファン投票で1986年度の "Most Hated Wrestler" に選ばれた[5]ほどの大ヒールだった彼だが、やがて悪党人気がファンの支持に変わり、交通事故で引退したマグナムT.A.に代わるダスティ・ローデスの新パートナーとなり、1987年よりベビーフェイスに転向。4月11日にはローデスと組んでタッグチーム・トーナメント "Crockett Cup" に出場、決勝でフォー・ホースメンのタリー・ブランチャード&レックス・ルガーを破り、優勝を飾った[6]。ローデスとのコンビはスーパーパワーズ(The Superpowers)と呼ばれ、旧敵ウォリアーズとも共闘してフレアー率いるフォー・ホースメンと熾烈な軍団抗争を展開した。8月17日にはブランチャードからNWA世界TV王座を奪取[7]、11月26日のスターケードで提携団体UWF(ビル・ワット主宰。当時すでにクロケット・プロに吸収合併されていた)のTV王者テリー・テイラーを下し、両団体のTVタイトルを統一した[8]。
1988年はマイク・ロトンドやバリー・ウインダムと抗争するが、妻がホジキンリンパ腫を患ったために同年下期に戦線を離脱。同時期、ジム・クロケット・プロモーションズはテッド・ターナーに買収されWCWが発足したが、妻の死後はWCWに参加せず、1989年から1990年までは地元ミネアポリスのAWAに出場した。
1991年2月、ヒールとしてWCWに復帰し、スティングとの連戦を開始。7月14日のグレート・アメリカン・バッシュでは十八番のロシアン・チェーン・マッチでスティングから勝利を収めている[9]。1992年からはベビーフェイスに戻り、リック・ルードやベイダーと抗争した。
ベイダーとの抗争で首を負傷したこともあり、1993年より新生キリスト教徒となって現役を引退、以降は宣教師としての活動を続けている[10]。選手時代はハルク・ホーガンのライバル候補としてWWFとの契約が何度となく噂されたものの、WWF参戦は一度も実現しなかった。
引退後は長らくプロレス業界から離れていたが、2003年1月15日に覆面レスラーのミスター・レスリング4号(Mr. Wrestling IV)を名乗ってTNAに登場。かつての盟友ダスティ・ローデスを急襲し、覆面を脱いでその正体を明かした。その後はフェイスターンしてローデスを援護、スーパーパワーズ再結成をほのめかすも、選手としてリングに復帰することはなかった[11]。
2008年にはインディー団体のMACW(Mid-Atlantic Championship Wrestling)に出場し、3月15日の興行ではバフ・バグウェルの試合に介入、5月16日にはリック・スタイナーのセコンドを務めた[11]。
得意技 [編集]

ロシアン・シックル(Russian Sickle)
ロシアン・レッグ・スウィープ(Russian Leg Sweep)
バックブリーカー
ベアハッグ
エルボー・ドロップ
獲得タイトル [編集]

NWA世界タッグ王座(ミッドアトランティック版):2回(w / イワン・コロフ)
NWA世界6人タッグ王座:1回(w / イワン・コロフ&クラッシャー・クルスチェフ) ※クルスチェフの負傷欠場後はバロン・フォン・ラシクを新パートナーに起用
NWA USヘビー級王座:1回
NWAナショナル・ヘビー級王座:1回
NWA世界TV王座:1回
UWF世界TV王座(ミッドサウス版):1回
脚注 [編集]

^ “Nikita Koloff Biography Page 1”. Nikita Koloff.com. 2009年12月2日閲覧。
^ “NWA World Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月19日閲覧。
^ “NWA United States Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月19日閲覧。
^ “NWA National Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月19日閲覧。
^ “Nikita Koloff Biography Page 2”. Nikita Koloff.com. 2009年12月2日閲覧。
^ “NWA The Crockett Cup Tournament”. Wrestling Information Archive. 2010年4月19日閲覧。
^ “NWA World Television Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月19日閲覧。
^ “UWF World Television Title History”. Wrestling-Titles.com. 2009年12月18日閲覧。
^ “WCW The Great American Bash 1991”. pWw - Everything Wrestling. 2010年4月19日閲覧。
^ “Nikita Koloff Biography Page 3”. Nikita Koloff.com. 2009年12月2日閲覧。
^ a b “Wrestler Profiles: Nikita Koloff”. Online World of Wrestling. 2009年12月2日閲覧。
【2011/01/05 02:05 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
ドン・レオ・ジョナサン
ドン・レオ・ジョナサン(Don Leo Jonathan、1931年4月29日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。ユタ州ソルトレイクシティ出身。本名はドン・ヒートン(Don Heaton)、日本での異名は「人間台風」「モルモンの暗殺者」。
目次 [非表示]
1 来歴
2 得意技
3 獲得タイトル
4 外部リンク
来歴 [編集]

「モルモンの殺人者」と称されたプロレスラー、ブラザー・ジョナサンの息子。父のトレーニングのもと、1949年にプロレスラーとしてデビュー。1958年9月には日本プロレスに初来日を果たし、力道山のインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦している。
1961年1月にネブラスカ州オマハでドクターX(ビル・ミラー)を破ってオマハ版AWA世界ヘビー級王座を奪取。同年4月にもドクターX、5月には王座決定戦でボボ・ブラジルを下し、同王座は通算3回獲得している。ただし、無欲な性格もあってビッグタイトルにはこれ以外縁がなかった。
日本には日本プロレスをはじめ国際プロレスや全日本プロレスに来日し、ジャイアント馬場と名勝負を繰り広げている。馬場とはアメリカ修業時代に巨人コンビを結成した仲で、馬場が全日本旗揚げ直後に行った「世界ヘビー級争覇戦」(初代PWFヘビー級王座の決定戦となった)の対戦相手8人にも起用されているほか、1975年にはオープン選手権に参加。豪華メンバーを集めたリーグ戦にあってナチュラルな強さで存在感を発揮した。ただし、観客動員力はあまりなかったとされている。国際プロレスではアンドレ・ザ・ジャイアントとも対戦し、アンドレ自身にスケールの大きなプロレスを開眼させたという。
北米ではカナダ全土を主戦場とする一方、ニューヨークのWWWFにもヒールのポジションで度々登場。グラン・ウィザードをマネージャーに、ブルーノ・サンマルチノやペドロ・モラレスのWWWF世界ヘビー級王座に挑戦した。
巨体ながらトンボを切れるほどの卓越した運動神経と多彩なレスリングテクニックの持ち主で、またジャイアント馬場のキーロックを片手で軽々と担ぎ上げ(1967年)、若き日のアンドレをハイジャック・バックブリーカーで振り回し(1973年、カナダ)、ジャンボ鶴田のキーロックも場外で担ぎ上げたままリングに上がり(1978年)、果ては狩猟で仕留めた300キロもある大鹿を担いで山を降りたなど、怪力無双のエピソードも尽きない。その底の知れない強さは「その気になればルー・テーズを越えるレスラーになる」といわれていた。
得意技 [編集]

ハイジャック・バックブリーカー
ジャイアントスイング
サンセットフリップ
獲得タイトル [編集]

AWA
AWA世界ヘビー級王座(オマハ版) : 3回
NWA
NWA世界タッグ王座(バンクーバー版) : 1回(w / ドミニク・デヌーチ)
NWAカナディアン・タッグ王座(バンクーバー版) : 18回(w / キンジ渋谷、 ジン・キニスキー、ヘイスタック・カルホーン×2、ドミニク・デヌーチ、ロッキー・ジョンソン、ジョン・トロス、ジミー・スヌーカ、ダッチ・サベージ、ビッグ・ジョン・クイン、etc.)
NWAパシフィック・コースト・ヘビー級王座(バンクーバー版) : 5回
NWAインターナショナル・タッグ王座(ウィニペグ版) : 2回(w / ホイッパー・ビリー・ワトソン、ジム・ハーディー)
NWAカナディアン・オープン・タッグ王座(トロント版) : 1回(w / ジン・キニスキー)
NWAカナディアン・ヘビー級王座(カルガリー版) : 1回
NWAブラスナックル王座(テキサス版) : 1回
NWAテキサス・ヘビー級王座 : 1回
WWA
WWAインターナショナルTVタッグ王座(ロサンゼルス版) : 1回(w / フレッド・ブラッシー)
その他
IWA世界ヘビー級王座(モントリオール版) : 2回
CWA世界ヘビー級王座(ドイツ版) : 1回
EWU世界ヘビー級王座(南アフリカ版) : 1回
IWA世界タッグ王座(オーストラリア版) : 2回(w / Antonio Pugliese)
【2011/01/05 02:05 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
クリス・チェイヴィス
タタンカ(Tatanka)のリングネームで知られるクリス・チェイヴィス("War Eagle" Christopher Chavis、1965年6月8日 - )は、ラムビー族インディアンのプロレスラー。アメリカ合衆国ノースカロライナ州ペンブルック出身。
目次 [非表示]
1 来歴
2 得意技
3 獲得タイトル
4 脚注
5 外部リンク
来歴 [編集]

フィットネス・クラブのインストラクターを経て、バディ・ロジャースの紹介でプロレスラー養成所 "モンスター・ファクトリー" に入門し、1990年に地元ノースカロライナのインディー団体NAWA(SAPW)でデビュー。当時のリングネームは"ウォー・イーグル" クリス・チェイヴィス。同年公開の映画『ダンス・ウィズ・ウルブズ』の大ヒットも追い風に、ワフー・マクダニエル以来久々に登場したインディアン・レスラーの大型ルーキーとして注目され[1]、1991年末にWWFと契約。
WWFでは1992年、ラコタ語でバッファローを意味するタタンカに改名し、ベビーフェイスの新鋭として売り出された。同年4月5日のレッスルマニア8ではリック・マーテルにフォール勝ちし、以降もマーテルとの抗争を展開("ザ・モデル" をギミックとするマーテルは、平原インディアンの誇りである羽飾り[2]をタタンカから奪い、それを自分のファッションの一部にして彼の怒りを煽った)。
翌1993年4月4日のレッスルマニア9ではショーン・マイケルズのインターコンチネンタル王座に挑戦し、リングアウト勝ちを収めている(タイトルは移動せず)。同年6月13日にはキング・オブ・ザ・リングの決勝トーナメントにも出場(1回戦でレックス・ルガーと引き分け)。その後はモンスター・ファクトリーの先輩でもあるバンバン・ビガロやIRSなどと抗争した。
WWFでは1970年代に活躍したインディアン・レスラーの先達チーフ・ジェイ・ストロンボーの弟子という設定のもと、勇猛果敢なファイトスタイルで支持を獲得。彼が試合中に劣勢になると、観客は一斉にインディアンの祈りの歌を合唱し、攻撃に転じると雄叫びをあげて応援した。提携団体であるテネシー州メンフィスのUSWAにも遠征し、1993年9月13日にはジェリー・ローラーからUSWAユニファイド世界ヘビー級王座を奪取[3]。同年はヨコズナのWWF世界ヘビー級王座にも挑戦している。日本には1994年5月の『WWFマニア・ツアー』で初来日を果たした。
1994年8月29日、サマースラムで行われたレックス・ルガー戦で、テッド・デビアスに買収されたというアングルのもとヒールに転向。以降、デビアス率いるミリオンダラー・コーポレーションの一員となり、コスチュームのイメージカラーを黒に変更するなどヒールらしさを演出したが、もともとベビーフェイス色の強いキャラクターだったため観客の反応は鈍く、ヒールターンは失敗に終わる。その後はニューカマーのジョバー的な役回りが多くなり、家族と過ごす時間がほしいという本人の希望もあって1996年1月21日のロイヤルランブルを最後にWWFを離脱。


Tatanka with Falcon Coperis in 1997
以降はWCW入りも噂されたがオファーには応じず、インディー団体にベビーフェイスのスペシャルゲストとして単発的に出場。1998年10月にはフロリダ州タンパで行われたトーナメント決勝でシッド・ビシャスを破り、復活したスタンピード北米ヘビー級王座の初代チャンピオンとなった(同王座はカルガリーのスタンピード・レスリングが1989年に活動を停止して以来、封印されていた)[4]。また、2000年にはカート・ヘニングやロード・ウォリアーズと共にオーストラリアにも遠征している。
2005年8月1日、保留地(Reservation)のあるコネチカット州モヒガンサンで行われた『Raw』で9年半ぶりにWWEに登場。ユージンとの3分間のシングルマッチを行い、乱入してきたカート・アングルをユージンと協力して蹴散らすなど、大歓声で迎えられた。同年の末よりWWEとフルタイム出場の契約を交わし、翌2006年1月29日のロイヤルランブルに出場。以降『スマックダウン』の所属となる。2月19日のノー・ウェイ・アウトではマット・ハーディーのパートナーとなり、MNM(ジョニー・ナイトロ&ジョーイ・マーキュリー)から勝利を収めた。
その後もベテランのベビーフェイスとしてシルヴァン・グラニエらとのミニ抗争を行うが、連敗が続きレフェリーに不審を抱くキャラクターになるなど、ブックに恵まれないまま2007年1月にWWEを解雇された。以後、2008年はイギリスのオールスター・レスリングに出場。2009年12月17日にはTNAに登場し、ジェイ・リーサルを破っている[5]。
2010年11月15日、"Old School edition" と銘打って行われたスペシャル版の『Raw』に出演[6]、ジム・ドゥガンやロン・シモンズらと共にバックステージのスキットに参加し、ダスティ・ローデスの入場テーマ曲 "Common Man Boogie" に合わせ、インディアン式のステップでダンスを踊った[7]。
得意技 [編集]

トマホーク・チョップ(インディアン・レスラーの代名詞である手刀攻撃)
ウォー・ダンス(ハルク・ホーガンのハルクアップに通じるムーブ。劣勢に陥った際、リング内でインディアンの「戦いの踊り」を舞って自らを鼓舞し、反撃に転じる)
エンド・オブ・ザ・トレイル[8](バックフリップ。相手をファイヤーマンズ・キャリーで抱え上げ、そのまま後方に叩きつける。主にフィニッシュ技として使用。インディアン・デス・ドロップとも呼ばれる)
ドロップキック
フライング・クロス・ボディ
獲得タイトル [編集]

NAWAヘビー級王座:1回
SAPWヘビー級王座:1回
USWAユニファイド世界ヘビー級王座:1回 [3]
スタンピード北米ヘビー級王座(1998年復活版):1回 [4]
オーストラジアン・ヘビー級王座:2回
 etc.
脚注 [編集]

^ 『THE WRESTLER BEST 1000』P225(1996年、日本スポーツ出版社)
^ クリスの出身部族のラムビー族には、実際には平原部族の被るような羽根冠の文化はない。事実、WWFデビュー当初は羽根冠をコスチュームに使用しておらず、インディアン・レスラーとしての一般的なビジュアル・イメージを醸成するために後になって羽根冠を被るようになった。
^ a b “USWA Unified World Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月7日閲覧。
^ a b “Stampede North American Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月7日閲覧。
^ “Caldwell's TNA iMPACT Report 12/17”. PW Torch. 2009年12月17日閲覧。
^ “WWE Legend roll-call on an "old school" edition of Raw”. WWE.com. 2010年11月16日閲覧。
^ “The Million Dollar Championship returns to its rightful owner”. WWE.com. 2010年11月16日閲覧。
^ "End of the Trail" とは、チェロキーの"Trail of Tears" をイメージして1915年に製作された彫刻の
【2011/01/03 23:25 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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